「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」1
オペラ『フィガロの結婚』は、台本作家ロレンツォ・ダ・ポンテとモーツァルトという、オペラ史上最強のコンビによって誕生した。モーツァルトがコロレード大司教と決裂し、ウィーン定住を決意したのは1781年だが、ダ・ポンテも翌1782年にウィーンに出てきた。『フィガロの結婚』の原作者ボーマルシェも、とてつもなく破天荒な人物だが、ダ・ポンテもそれに劣らず数奇な運命をたどっている。ボーマルシェ、ダ・ポンテ、モーツアルトが揃わなければ、オペラ『フィガロの結婚』は決して生まれなかっただろう。いや、もう一人付け加える人物がいる。皇帝ヨーゼフ2世だ。あの名君マリア・テレジアの長男にして啓蒙専制君主として様々な改革に取り組んだ人物(マリー・アントワネットの兄でもある)。ダ・ポンテの説得で彼が上演を許可したからオペラ『フィガロの結婚』は日の目を見ることができたのだ。では、ダ・ポンテはどのように皇帝を説得したか?彼の『回想録』から見てみよう。ただし。断っておかなくてはいけないが、ダ・ポンテは自分の才能については自惚れが強く、手柄を誇張するふしがあるため、眉唾な部分も多い。
「そのようなわけで私はテクストの仕上げにかかった。私たちは協力して作業をした。私が一場を書き上げるや否や、モーツァルトがそれに音楽を付け、6週間のうちにすべては完成した。モーツァルトは今回はついていた。劇場は新作オペラの不足をかこっていた。私はこの好機を利用し、誰にも相談せず、《フィガロ》を皇帝に個人的にお勧めした。
『なんだって』と陛下はおっしゃった。『なるほどモーツァルトは器楽曲には実にすぐれた才能を持っているが、これまで書いたオペラは一曲だけで、それは、とくに見所のないものだったがね』
『わたくし自身も』と、私は恭しく言葉を返した。『皇帝陛下のありがたいご好意がございませんでしたら、ウィーンではオペラを一作だけ書いたことになったと思われます』
『それはそうだが、『フィガロの結婚』を余はすでにドイツ劇団に禁じたのだ』
『存じております。けれどもわたくしは音楽のためのドラマを書いたのでございまして、喜劇を書いたわけではございません。複数の場面を省略し、多くの場面を思い切って短くしなくてはなりませんでした。そのときに良俗や礼儀に反するものは全部削除しまして、陛下ご自身がおいでになる劇場にふさわしくないものは取り除きました。また、音楽に関しましては、わたくしが判断するところでは、まことに並外れて美しい仕上がりと思われます』
『そうか、そのような判断とあらば、音楽についてはあなたの趣味のよさを信じ、テクストについてはあなたの才知と熟練の技を信じよう。総譜を官房書記に渡すように』
私は大急ぎでモーツァルトのもとに駆けつけた。ところが私がこのうれしい報せを語り終えないうちに、従僕が皇帝陛下の命を記した書付けとともに転がり込んできた。ただちに総譜を携えて参上せよ、と言う。モーツァルトが指示に従い進み出て、《フィガロ》から数曲を演奏すると、皇帝はえらくお気に召したのだった。演奏は陛下をこの上なく驚嘆させた、と言って過言ではない。陛下はほかの香り高い芸術同様、音楽にも極上の鑑識眼をお持ちだった。このオペラが世に出たのちの桁外れな成功、今日も続くこの作品の繁栄が、陛下の判断に狂いがなかったことを証明している」
ここで語られていることは、恣意的であり、客観的描写に欠けているかもしれない。しかし、歴史における真実とは何か。言語化された歴史だけが真実ともいえるのではないか。いずれにせよ、ダ・ポンテの『回想録』の記述は、ひとりの人間の内面の表明であり、オペラ『フィガロの結婚』誕生の経緯の一面を描いていることは確かだと思う。
『フィガロの結婚』初演時の広告
2016ウィーン国立歌劇場日本公演「フィガロの結婚」
ロレンツォ・ダ・ポンテ