法然上人の生涯④ ~法難から往生まで~
前回のブログにも書いたように、法然教団は拡大を続けたようですが、法然70歳前後を境として、他宗からの法然教団批判が顕在化してくることになります。批判の対象は直接には一部の門弟の「他宗誹謗」「造悪無礙(悪を造っても念仏さえすれば往生には差し障りはないということ)・破戒為宗(むしろ破戒を教えとして勧めること)」といった行動であったのですが、その元凶は法然の専修念仏の教えそのものにあるとして、法然自身および法然教団全体が批判されるようになっていきました。
まず法然72歳の元久元年(1204)10月には比叡山の衆徒が念仏を停止すべきことを天台座主に訴えました。それに対し、法然は『七箇条制誡』をしたためて門弟を誡めると同時に、『送山門起請文』を著して比叡山に対して弁明を行ったのであります。
それによって一時的に批判は沈静化したのですが、しばらくすると門弟の言動は元に復したため、今度は興福寺の貞慶が『興福寺奏状』を著すなど、興福寺が主となって朝廷に念仏禁止と法然等の処罰を要請しました。以上を「元久の法難」といいます。
ただ、興福寺側からの要請にもかかわらず、朝廷は念仏禁止には消極的で、念仏禁止や門弟等の処罰の宣旨は出すものの、ほとんど実行には移されなかったといわれています。
ところが、建永元年(1206)、法然74歳のとき、門弟の住蓮・安楽(遵西)が鹿ヶ谷で修していた六時礼讃に、後鳥羽上皇が寵愛していた女官二人が上皇の留守を見計らって参加し(もしくは御所内に二人の僧を招き入れ)、出家してしまうという事件が起こりました。上皇はこれに激怒し、翌2年春、住蓮・安楽等4名を死罪、法然・親鸞等8名を配流に処しました。
法然はこの時、「藤井元彦」の俗名を与えられて土佐へ(ただし実際には、九条家の領地の讃岐へ)配流となったのです。これを「建永の法難」(真宗では「承元の法難」)といいます。なお、『四十八巻伝』などによると、配流の途次、高砂で漁師夫妻を、また室津では遊女を教化したと伝えられています。
法然は幸いその年の12月(8月説や承元3年〔1209〕8月説もあり)には畿内まで帰ることは許されたものの、入洛は許可されず、摂津国箕面みのおの勝尾寺に4年間逗留し、ようやく建暦元年(1211)11月、帰洛を許されました。