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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.CHOPIN、クリスマス・イヴ、晩餐会に招待がなかったショパン

2019.12.24 11:15

眠れない夜を過ごすショパン。クリスマス・イヴに想うのも、やはりワルシャワの家族のことである。もう、父ニコラスはいない、高齢の母ユスティナと一緒に暮らしているのは妹イザベラ夫妻。そして、大好きな姉ルドヴィカと、その夫のエンドルジェイヴィツとその子供たち。ショパンにはショパンの愛人と世間でレッテルを貼られてしまった妻でも家族でもないサンドがいる。

「親愛なるサンド夫人はクリスマス・イヴだというのに一向に体調が回復しません。僕はいつものように6時か7時か8時に夕食を食べます。昔ながらの習慣を守っているのは数軒の外国人の家庭だけです。例えば、シュトックハウゼン夫人の家で昨日、子守歌を歌って食事をしませんでした。彼女には私のソナタを献呈しました。彼女は今日の子供たちのパーティーの手配に忙しかったのです。すべてのプロテスタントの世帯はクリスマス・イヴを守っているが、普通のパリジャンは今日と昨日の違いを何も感じていないのです。」

シュトックハウゼン夫人とショパンは何を約束をしたのか不明だがショパンはクリスマスの晩餐会に招かれなかったと姉ルドヴィカに話したのだ。

「私たちはここで暗いクリスマスを過ごしています。

サンドは病気ですが、医者に診てもらえません。彼らはひどい風邪をひいていて

ベッドで寝ています。

誰もがパリの気候を呪い、田舎ではもっと冬が過酷なことを忘れています。

いいえ、どこにいても数ヶ月の厳しい冬に耐えなければなりません。

私は、これらのせっかちな連中は、どうしてもっといやな空の下で暮らせるのか不思議に思うのですよ。

私はすでに多くの若い人よりも長生きしています。

もっと元気な人よりも私は不滅だと思います。」

当時はイギリスに続きパリにも産業革命の波が押し寄せて来ていたのだ、便利になる反面、環境は悪化しセーヌ河の汚物による悪臭と汚泥が街を汚染し病気が流行するため、人々は生きるだけでもたいへんな時代だったのだ。実際、ショパンはパリに来てから親友のマトゥシンスキを結核で亡くし、歌手のヌリーは精神病で亡くなり、友人が一人二人と亡くなっていた。そしてこの年の1845年の5月11日にはショパンの弟子で天才子役として父親が必死に売り込んでいたカール・フィルチュはわずか15歳で亡くなっていたのだ。そうしたことをショパンは思うと、自分は完全な体ではなくともこうして生き延びていることを誇りに思うのであった。

そして、ショパンは姉に語り続けた。「ドラローシュ(画家)の奥さん(ルイーズ)が数週間前に亡くなりました。 ドラローシュはパリ国立美術学校内の壁画(1837年)を描いた人です。

すべてのパリは彼女の損失を嘆きます。彼女は繊細な理解のある人で、かなり若くてきれいで、非常にスリムですが 彼女の家には最もパリで著名な人々が集っていました。 誰もが彼女を愛していました。彼女は幸せな家、富、尊敬を手に入れていました。 彼女の父親(ヴェルネ)は喪主であり、泣き、雄牛のように号泣していました。彼女の母親はショックで心を失っていました。」ショパンは何かを知っていたのであろう、ルイーズの死を同情的に語った。

そして、長い長いショパンの15日間に及ぶ書簡は、日付けが変わり、

「12月26日。昨日も今日もサンド夫人はまだ寝ていますが、彼女は少し良くなり、間違いなくあと1日か2日で元気になると思います。

しかし、それまで、僕は便りをあなたに書く時間はもうありません。 ソランジュも風邪をひいています。私は最も強いです。

すべての私の愛を。 私のことは心配しないでください。 神は私を守ってくれています。 

あなたと私のすべての知り合いに新年と新年の愛と幸運を祈ります。

ルドヴィカへの私の愛を。 私が持っているロゼール嬢からのメモを同封します。

私が書いたことを読み返す時間がないです。フレデリック・ショパン」

こうして、1845年最後のショパンの書簡は最愛の姉ルドヴィカに宛てられたのだった。

19世紀頃の冬のパリ