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粋なカエサル

「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」4 ロレンツォ・ダ・ポンテ③

2019.12.25 00:36

 皇帝ヨーゼフ2世の寵を得て、ダ・ポンテはウィーンで順調なスタートをきる。初めてのオペラ台本《一日成金》に曲を付けたのはサリエリ。1784年12月6日、ブルク劇場で初演の日を迎えたが不評だった。自信家のダ・ポンテにとっては予想外のデビューであり、最初の挫折。しかし、ゴルドーニの傑作《愛想は悪いが、気のいい男》を台本に仕立てた第2作はスペイン人作曲家マルティンと組み、1786年1月に上演。好評を博し、ダ・ポンテは名誉を回復する。こうした大きな人生の試練をくぐりぬけたこの経験を通して、ダ・ポンテは、すでにヨーロッパの半分で絶賛された音楽家モーツァルトにとって、不足のないパートナーになったのである。

 二人が最初にあったのは、当時モーツァルトが住んでいた家の所有者でもあった富裕なユダヤ人商人ヴェッツラー男爵の邸宅だった。時期は1782年11月から1783年5月の間とされる。ダ・ポンテは相手の重要さを正しく見抜けなかったようで、2人の芸術家がともに作品を作ろうと最終的に決意するまでには、1785年秋まで待たねばならなかった。作品の成立に向けて最初の一歩を踏み出したのは自分だったとダ・ポンテは『回想録』で主張している。

「・・・わたしはモーツァルトのところへ行き、・・・私の書く台本に作曲する気があるかと聞いた。

 『大喜びでやりますとも』と相手は答えた。『ただ、それに作曲する許可が僕には与えられない、と確信しているのですが』

 『許可を得るのは私の仕事さ』と私は言葉を返した」

 そして選ばれたのが、当時ウィーンで評判が広まっていたパリのボーマルシェの戯曲『フィガロの結婚』だった。

「モーツァルトに関しては、彼のはかりしれない天才が多くの面で高尚な素材を必要としていると感じていた。ある日モーツァルトと素材について話し合っていたら、相手がこう聞いてきた。どうだろう、あなたならボーマルシェの喜劇『フィガロの結婚』をオペラに作り直すのはそうむずかしくないだろう、と。この発案にはなるほどと思って、私はそれをやってみると約束した。ところが、これには克服すべき大きな困難があった。つまりこの数日前に、皇帝はドイツ劇団の仲間に当の喜劇の上演を禁じていた。このコメディーはどうも品がない、というのが皇帝の思し召しだった。どうやってすぐまた問題の喜劇を皇帝にお勧めできよう?ヴェッツラー男爵は私の台本に巨額の報酬を払うと言ってきた。男爵はこれから作られるオペラが、ウィーンで上演が許されないなら、ロンドンかフランスで舞台にかけようと言うのだった。しかし私は男爵の申し出を受けず、台本と音楽を極秘に作り、これという好機を見計らって劇場査察官たちあるいは皇帝に自分で持ち込む案にこだわった。テクストの脚色を請け負う勇気はあった。」

 ボーマルシェの戯曲『フィガロの結婚』の正式名は『たわけた一日あるいはフィガロの結婚』。1784年4月27日にパリのコメディー・フランセーズで初めて上演された。その後、その作品はウィーンでドイツ語に翻訳され、シカネーダー(後に、現在もモーツァルトのオペラの中で筆頭の人気を持つオペラ『魔笛』の台本を書く)の一座が最初のドイツ語上演を1785年2月3日に、ケルントナートーア劇場で行う予定だった。しかし検閲の許可が下りなかった。なにしろ、この作品は、封建貴族に仕える家臣フィガロの結婚式をめぐる事件を通じて、貴族を痛烈に批判。ルイ16世は「これの上演を許すくらいなら、バスティーユ監獄を破壊する方が先だ」と激昂したといわれる。このような危険な作品が、どのようにオペラ化され、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世のお膝元ウィーンで上演できたのだろうか。

「ウィーンの眺望 かけ橋 1780年」

ジャン・マルク・ナティエ「ボー・マルシェ」コメディー・フランセーズ

「ロレンツォ・ダ・ポンテ」 1830年ごろ