F.CHOPIN、ショパンと憂鬱なサンド一家、そしてショパンへの怪しい頼み事とは
ショパンはクリスマスに姉ルドヴィカとワルシャワの家族への書簡をやっと書き終えたところだった。クリスマスといってもショパンは何も変わりなくアパルトマンで過ごした。
ショパンとサンドはオペラ鑑賞にはふたりで一緒に行くことが出来ても、夫婦でないふたりは教会の礼拝には行けないのだ。かといって今ではパリで有名になってしまったショパンは一人で行くことも憚るようになってしまったショパンだった。
サンドと出会う以前まではショパンは信仰深く教会へ一人でも必ず行っていたのだ。
ルドヴィカにたくさんの事柄を書いたフレデリックだが本当は、サンド一家とつまらぬクリスマスを過ごしていた。クリスマス・イヴ、平凡だが幸せな家庭、一家そろって礼拝へ教会へ、部屋にはクリスマスツリーがという絵に描いたような幸せはフレデリックにはなかった。サンドとその子供のソランジュそして、時々お金をせびりに来るサンドの息子モーリスという、世間からは理解されない家族でない同居人がショパンにはあるだけだった。
憂うつなサンド一家とショパンは早く新年が明けてほしいだけだった。
26日も過ぎると、忘れかけていた人物からショパンに一通の短い手紙が届いた。
それは、ショパンがパリに来たばかりの頃にショパンに「君はフィールドに習ったのかね?」とショパンを褒めながらも「私のところで3年間は修行をすることが条件だ」とショパンに言った、あのカルクブレンナーからだった。ショパンは、ワルシャワの大学を出てパリ音楽院以上の勉強がすでになされているとエルスネル先生が太鼓判を押していたにもかかわらず、カルクブレンナーは権力を振りかざしてショパンの才能を捻じ曲げようとしたことがあったのである。
忘れかけていたカルクブレンナーからの手紙は意外な内容だった。
「私はあなたに大きなお願いがあります。息子のアーサーはとても身の程知らずです。変ロ短調のあなたの素晴らしいソナタを演奏したいと言っており、あなたの意図にできるだけ近づけるよう、あなたからのアドバイスを息子は切に願っています。
あなたは私がいかにあなたの才能を愛しているかを知っていますし、私の息子を授けるためにあなたにお願いしている私に対して、あなたが私に親切であることをどんなに感謝しているかを言う必要はありません。
毎日二時から四時までの間に、そして日曜の午前中、彼はあなたのご指示を待っております。この軽率な私のあなたへの要求はいつも何千とありましたが、あなたは私に親切だったため、私はあなたが許して下さることと思っております。ご家族の皆様によろしくお伝えください。カルクブレンナー」
どういう風の吹き回しか、ショパンはこれに対して直ぐには返事をしなかったのだった。
カルクブレンナーには何か下心がない訳がないのだ。今までさんざんな目に遭わされて来たショパンは、カルクブレンナーを信用することは出来ないショパンでした。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ミヒャエル・カルクブレンナー
(1785年11月2-8日 - 1849年6月10日)ドイツのピアニスト・作曲家、ピアノ教師、ピアノ製造の出資者
「カルクブレンナーはこの冬、ある弟子の演奏会に再び姿を現した。彼の口元にはやはり、最近博物館で目にしたあるエジプトのパラオのミイラと同じように、保存処理されたかのような爽やかな微笑みがあった。25年越しにカルクブレンナーは最近ロンドンを訪れ、彼が最初に成功を収めたその地で、偉大な名声の実りを摘み取ってきた。彼が首を折らずに帰ってこれてよかった。これで、カルクブレンナーが長い間イングランドを避けていたのは、そこに二重婚の不貞罪が絞首刑になるという危ない法律がはびこっているからだという、おかしな話をもう信じなくてもよくなった。彼は泥の中に落ちてしまったボンボン菓子のようだ。」ショパンの友人でもあった詩人ハインリヒ・ハイネはそうカルクブレンナーを皮肉りました。