置いていかれて捨てられた
兄弟三人で過ごす最後の時間だと聞いた。
宿敵と認めざるを得ないあの男と対峙するため、そして今までに背負ってきた罪を償うためにも死ぬ覚悟は出来ていて、今更恐れることも悲しむことも何もない。
むしろ死ぬ直前、こんなにも穏やかに過ごすだけの時間があることへの感謝すらあった。
普段のようにルイスが用意した食事をウィリアムとアルバートが舌鼓を打ちながら過ごした団欒は、死んだとしてもきっとずっと素晴らしい記憶として残るのだろう。
各々の時間を過ごし、朝を迎え、そうしてルイスが連れてこられたのは地下に造られていた牢だった。
「ウィリアム兄さん、アルバート兄様、ここは?」
「ヘルダー達に頼んで造らせておいた空間だよ。ここだけは何があろうと崩れることはない」
「なるほど…」
崩れることはない強固な地下牢が、果たして今の自分達に必要なのだろうかという疑問はかろうじて飲み込んだ。
過ぎる違和感を気にしないようにして、ルイスは促されるまま牢に入って指示された小さな鞄を手に取り振り返る。
振り返った先の視界に映ったのは、ウィリアムが牢の鍵を閉めている姿だった。
がちゃん、と重たく鈍い音が少し遅れてルイスの耳に届く。
「…に、兄さん?」
「…」
「あ、開けてください兄さん。この鞄が必要なんでしょう?あの男と約束した時間ももうすぐです。モランさん達もあの場所で待っているはずです。早く行かなければ…」
「そうだね。行ってくるよ。僕一人で」
「は…」
表情を乗せていないウィリアムの顔を、ルイスは久し振りに見た気がする。
この兄はいつだって微笑んでいて、その微笑みにいくつもの意図を匂わせていて、けれども決してルイスの前では嫌悪や苛立ちを見せることはなかった。
いつも優しく自分を見守り支えてくれた人だったのだ。
まさかその優しい兄が、自分の気持ちを知りつつ蔑ろにするはずがない。
ルイスがそう願い牢の隙間から手を伸ばしてもその手を取られることはなく、続けてウィリアムの背後にいるアルバートへ目を向けても何も変わることはない。
「あ、アルバート兄様、開けてください。早く三人で向かわなければ時間に間に合いません」
「三人で向かうつもりはない」
「な、何故…兄さんの計画では、僕達三人でホームズと対峙して、決着を付けると言っていたではありませんか!どんな結果であれ国に全てを明かして裁かれるのだと、そう言っていたではありませんか!!」
「…そうだね」
「開けてください!ここから出してください、兄さん!兄様!」
過ぎる不安が確かなものになる瞬間を、ルイスは実感してしまった。
表情を乗せていなかった二人の顔に悲痛な笑みが浮かんでは消える。
気のせいであってほしいと、何かの間違いなのだとひたすら自分に言い聞かせてはみるものの、思い出すのはかつてウィリアムと話した二人だけの秘密だった。
言葉になることはなかったけれど、ウィリアムは自分にだけは生きてほしいと願っていた。
ルイスだけは無垢なまま穢れのない世界で生きるに相応しい存在であるよう、人を殺める機会すらも奪われていた。
けれどそうしてルイスが得たものはただの孤独で、兄と離れてまで生きていたくないと思いを吐き出し、数年もの時間をかけてようやく同じところまで堕ちてきたのに、それなのに。
「いつも一緒だと、言っていたではありませんか!」
同じところに居ると思っていたのは、自分だけだったのだろうか。
全身を突然襲った恐怖ゆえに震えた声でルイスが叫んでも、ウィリアムの眉一つすら動くことはない。
アルバートの表情も変わることはなくて、疑惑がはっきりとした確信になった頃にはもう絶望しか存在しなかった。
ウィリアムに置いていかれるのだ、自分は。
アルバートに捨てられるのだ、自分は。
三人でモリアーティとなったあの日から、ルイスがずっと恐れていたのはこの二人に置いていかれて捨てられることだった。
独りになるのが嫌で、二人の側に存在していたくて、そのためだけに徹底して二人のために在ろうと努力してきたというのに、最後はやっぱり置いていかれて捨てられるのだ。
二人に必要とされない自分になど何の価値もないのに、結局最後はどちらの側にもいられない。
今この瞬間、ルイスが重ねてきた努力と執念は全て打ち砕かれてしまうのだ。
嘘であってほしいとルイスが赤い瞳を歪ませれば、静かに口を閉じていたウィリアムが声を出す。
耳に馴染んだ愛しい声。
ルイスが持つ一番古い記憶は、ウィリアムが自分の名前を呼ぶ声だった。
愛しいだけの声が紡ぐ言葉の意味を理解したくないと思う日が来るなんて、想像もしていなかった。
「ごめんね、一緒にいられなくて」
聞きたくなかった言葉とともに謝罪を贈られようと、ルイスの気持ちが晴れることはない。
いつも一緒だと言ってくれたのはウィリアムなのに、ルイスを突き放すのもまたウィリアムなのだ。
謝るくらいなら一緒にいてくれればいいのに、どうして置いていくのだろうか。
柵越しのウィリアムに手を伸ばしてもやっぱり手を取ってはくれなくて、揺るがない決意をその緋色に見つけて、もう全てが遅いのだと分かってしまった。
ルイスが何をどう懇願しても、この兄に届くことはない。
「ルイスは生きてほしい。生きて、昔の君に相応しく生まれ変わったこの国を、僕の代わりに見てほしい」
「ゃ…いやです、一緒にいきたい、いかせてください…兄さんと兄様と一緒に、一緒にいかせてください!」
「…生きてね、ルイス。さようなら」
「さよなら、ルイス。良い一日を」
「嫌だ、開けてください!ここから出して!!兄さんっ兄様っ!!出して、出してください!!」
ウィリアムの緋色から視線を逸らしてアルバートの翡翠を見ても、やはりその瞳には揺らぐことのない覚悟が感じられる。
どう足掻こうと自分はウィリアムに置いていかれ、アルバートには捨てられてしまうのだと思うと視界に薄く膜が張る。
そんなに必要のない存在だったのだろうか。
自分は結局二人にとって要らない人間に過ぎなかったのだろうか。
大事にされていると思ったのは、間違いだったのだろうか。
「ここから出してくださいっ!独りにしないでっ、一緒に逝かせてくださいっ!!お願いです、お願いっ!」
懸命に鍵を抉じ開けようと乱暴に壊しにかかるが、強固なそれに傷一つ付くことはない。
ただただ不快な音が大きくなるだけで、頬を伝う水滴は冷たい石造りの床にパタリと落ちては跳ねていく。
しばらくガンガンと音を響かせながらルイスがもがく様子を名残惜しげに見つめてから、ウィリアムとアルバートはそこから離れて地下牢から姿を消してしまった。
自分が掻き鳴らす金属音よりもよほど小さなはずの靴音の方が、ルイスの耳には随分と大きく聞こえてくる。
あの二人の靴音はまるで絶望そのものだ。
姿が完全に見えなくなって、靴音も聞こえなくなって、その気配すらも遠くに行ってしまったことに気付いたルイスはその場に崩れ落ちた。
「…ウィリアム兄さん…アルバート兄様…」
小さく名前を呼んでみても返してくれる人は誰一人いなかった。
当たり前だ、ルイスは二人に必要としてもらえなかったのだから。
生きてほしいと言われても、二人のいない世界でどう生きていけば良いのか分からない。
生きる意味も目的もない。
ルイスが生きる意味はウィリアムとともに居ることで、生きる目的はウィリアムの夢を叶えるためだったのだから。
ヘルダー率いる兵器課が作ったとされるこの地下牢、そう簡単には壊れることはないのだろう。
それでも抗わずにはいられなくて、ルイスはウィリアムとアルバートを追いかけるために思考を切り替えて立ち上がった。
「約束の時間までまだ時間はある…すぐここから出て追いかければ間に合う!」
もうルイスは置いていかれて捨てられるのを恐れるばかりの子どもではない。
何があろうと絶対に二人とともに居るのだという決意を胸に、ルイスは仕込んでいたナイフで何とか鍵を抉じ開けようとした。
鍵だけでなく柵も壊そうと、持てる力全てを駆使して牢を破壊しようと赤い瞳に強き意思を宿して体を動かす。
そうして数時間、粘りに粘って鍵を抉じ開けたと同時に大きな爆発音がした。
すぐ近くどころではない、この屋敷そのものが爆破したようなその衝撃だというのに、ルイスがいる場所は牢の入り口に瓦礫が落ちてくる程度の被害で済んでいる。
牢そのものは無事で、当然その中にいたルイスも無傷だ。
けれどこの様子では屋敷自体は無残な姿になってしまっているのだろう。
爆発が止み、崩れ落ちる音も落ち着いたところでルイスが鞄一つを手に取り慌てて地上に出たときには、絢爛だったはずの屋敷はもう見る影もなかった。
「い、一体何が…」
この屋敷はモリアーティ家がスイスに所有している邸宅だ。
調べれば世には明かせない秘密が山ほど残っている。
不要な証拠は全て消してから裁かれることを選んだウィリアムは、初めからここを消すつもりだったのだろう。
ルイスはそう判断したが、それならばついさっきウィリアムとアルバートは約束の場所へ向かったというのだろうか。
時限式の爆弾などまだ開発が進んでいないはずだ。
だがルイスが地下に閉じ込められてから体感でも三時間は経過している。
そんなにもの長い時間、二人はここで何かしていたというのだろうか。
「…っまさか!」
そうして思い出したのは、約束の場所に一人で向かうと言ったウィリアムの言葉だった。
アルバートも三人で向かうつもりはないと言っていた。
ならば地下に閉じ込められたルイスは元より、アルバートもシャーロック・ホームズと対峙するあの場所へ行くつもりはなかったということだ。
「兄様っ、アルバート兄様!どこにいますか、兄様っ」
おそらくウィリアムはルイスを閉じ込めてすぐに出て行き、アルバートは屋敷を爆破するためこの場に残った。
屋敷だけではない、裁かれる身の上である自分の体ごと爆破することを選んだのだ。
だからルイスが閉じ込められてから屋敷が爆破するまでの時間にタイムラグが生じたのだろう。
「(兄様はご自分の血を誰よりも嫌っている…確実にモリアーティの血を絶やすためなら喜んで生き絶えると仰っていたほどだ。確実に死ねる選択肢を選ぶためにこの場に残っていても不思議ではない…)」
権力にばかり縋り付き、上の者には媚びへつらい、下の者には冷たく遇らい構うこともない。
ウィリアムとルイスがかつてモリアーティ家の人間から受けた迫害を、アルバートは二人以上に気にしていた。
アルバートからは何も傷付けられなかったというのに、まるで自分が犯した罪の如くウィリアムとルイスに対し慈しみの手を差し伸べてくれたのだ。
気にしなくて良いと、アルバートは他の貴族とは違う人なのだと、ウィリアムとルイスが再三そう申し伝えても彼の胸に届くことはなかった。
結局アルバートの中に流れる血は父と母と弟と同じもので、彼らが屑ならば自分もまた醜く汚い人間なのだろうと、アルバートはそう信じ切っていた。
その気高い志と信念がアルバートの根幹を形作っているのだといかに説明しても、何も届かなかったのだ。
アルバートは自分の血を嫌っている。
貴族という身分に生まれ落ちた自分のことを他の誰よりも嫌っている。
「兄様、どこですかアルバート兄様っ!」
そんな兄を悲しく思えど、弟二人が何を言っても変わらない心なのだから、どうにも出来ないほどに根強くアルバートを縛ってしまっているのだろう。
背負った業に関係なくアルバートは死を選ぶ。
自分の血をどこにも残すことなく死ぬことこそが美しいと信じているからだ。
ならばきっと今この瓦礫の山のどこかには、絶対にアルバートがいるはずだ。
ルイスはそう確信して叫び、瓦礫を漁り、穏やかで気高く美しい兄を探そうとした。
二人目の兄になってくれた彼のことを、ルイスは他の誰より尊敬している。
貴族の生まれでありながらこの国の不平等に疑問を抱いた彼のことを尊敬している。
だからこそ彼の弟になれたことが嬉しくて、彼はルイスの誇りだったのだ。
彼が死を選んだことを悲しく思わないはずもないし、出来ることなら生きていてほしいと、付き添って逝きたいと思う。
あんなにも優しい人が独りで逝ってしまうなんて可哀想ではないか。
自分では不服かもしれないが側に付き添ってあげたいと、ルイスはそう願いながら懸命にアルバートを探した。
「兄様、兄様っ…アルバート兄様…!」
兄の名前を呼んで、瓦礫に触れた手を血で汚しながら見つけたもの。
それは比較的崩れていない場所に置かれた机の上にあった。
アルバートが常に身につけていたはずのカフスボタン。
煤で汚れてはいたが美しいエメラルドが鮮やかで、モノクロばかりだった瓦礫の山の中で一際異彩を放っていた。
ルイスが最後に見たアルバートは間違いなくこのカフスを身につけていた。
わざわざ留め具まで付いた状態でここに置かれていたということはアルバートの意思で外されたということだろう。
まるでルイスに見つけてもらうために置かれたそれを見て、ルイスは血塗れの手を伸ばして綺麗な翡翠色を目に収めた。
「…アルバート、兄様…いた…」
あぁ、やっぱりもう兄はここにいないのだろう。
存在しない自分をいつまでも探してくれるなという、そんなアルバートの声が聞こえるようだった。
アルバートが持つ深く神秘的な瞳と同じ色で誂えたカフスボタンは特別に作らせた世界に一つだけの品だ。
唯一無二、アルバートのためだけのもの。
冷たいそれを握りしめ、ルイスは辺りを見渡してアルバートがいないかもう一度よく目を凝らす。
けれどもやっぱり、彼を見つけることは出来なかった。
きっと自分の肉片一つ残さず死ぬことを望んだのだろう。
最期の最期まで、完璧主義な彼らしいことだ。
けれどもルイスを襲うのは、独りで逝かせてしまった罪悪感と、捨てられてしまった焦燥感でしかない。
どちらの感情も胸に収め、ルイスはとめどなく流れる涙で濡れた眼鏡を投げ捨てた。
「…アルバート兄様、どうか、良い一日を」
気高く美しいアルバートのことだから、きっと死んだ姿を見られることを嫌うだろう。
それでも独り逝かせてしまうことには耐えられなくて、遺してくれたカフスボタンの代わりに自分が身につけていたものを持っていってほしかった。
もしまたどこかで逢うことができたら、そのときも彼の弟を名乗れる関係でありたいと思う。
地獄であろうと来世であろうと、いつかまた彼と兄弟でありたい。
「兄様、きっとまた、逢いましょう」
アルバートがここにおらず、探されることも望んでいないと分かった今、この場に佇む意味はない。
ルイスは俯いた顔を上げ、乱暴に涙を拭いてはっきりと前を見据えた。
カフスボタンは失くさないよう大事にしまい、そうして瓦礫の山から降りて約束の場所にいるであろうウィリアムの元へと駆けていく。
もう時間は当に過ぎていて、彼らが一体どんな結末を迎えているのかも分からない。
万が一、法廷の場ではなくあの場所でウィリアムが死ぬようなことがあるのなら、ルイスは悔やんでも悔やみきれない。
生きてほしいと願われたとしても、ルイスはそんなことを望んではいないのだ。
どちらの兄も存在しない世界で生きているつもりはない。
お願いだから間に合ってほしいと、ルイスは丁寧に磨かれた革靴を台無しにして必死に走った。
何度も下見を重ねて指定したライヘンバッハの滝。
そこはいつもと変わらず轟音を響かせながら冷たい空気を漂わせていた。
「はぁっ、はぁっ、はっ…」
「…よぉ、モリアーティ家の末っ子さん」
「っ…シャーロック・ホームズ…!」
「…遅かったじゃねぇか」
手も足もボロボロで、喉は冷えた空気が沁みるほどに荒れている。
それでも必死に周囲を見渡して愛しい兄の姿を探すが、目に入ったのは憎き敵でもある名探偵の姿だった。
全身がずぶ濡れで伏せた瞳の色は既にない。
何故濡れているかなど、想像するに容易かった。
「っ兄さんはどこですか!?ウィリアム兄さんはどこに!?」
「…」
「答えろ、シャーロック・ホームズ!」
「もう想像付いてんだろ。…あそこだよ」
「っ…!」
そうして指で示した先は滝壺で、まだ中腹に過ぎないこの場所でも十分に高さがあった。
約束した場所はここより更に上だったから、そんな高さから水の底まで落ちていったのならば、ウィリアムの行方どころか生死すらも分かりやすい。
ルイスは呆然と視界の先に映る水の流れを見つめていた。
「…!」
「…全て推理した。全て解き明かした。俺の推理に間違いはねぇ」
「…何故あなたはここにいるんですか…あなたも落ちたのでしょう、あそこに」
「たまたま助かった。運が良かっただけだ」
「に、兄さんは…」
「…運が悪かったんだろうな。見つけられなかったし、水から上がった形跡もなかった」
「…っ…」
何故シャーロックだけが助かり、ウィリアムだけが未だ水の中だというのだろうか。
確かに生前の行いは褒められたものではない。
自ら悪魔だと表現する程度には非道だったと思う。
いつかは裁かれ死ぬことを覚悟してはいたが、こんなの、あんまりじゃないか。
法廷の場で貴族すらも裁けるのだと見せしめの如く死ぬのではない。
誰かが語らなければその死すらも曖昧なものになってしまい、挙句その死を語るのは憎い憎い敵でもある目の前の男なのだ。
何がどうなっているのかと、ルイスは虚空を見つめて赤い瞳をただただ見開いていた。
「…おまえ達の目的は分かった。目指すべき理想が高すぎたことも、自己犠牲が過ぎることも知ってる。それでも、そのやり方は認められるものじゃねぇ」
「…分かっています、そんなことは」
「モリアーティは然るべき機関で裁かれるべきだ」
「分かっている、そんなことは!死ぬ覚悟なんて始めから出来ていました!」
シャーロックの声が耳障りだと言わんばかりに耳を塞ぎ、彼ではなく自分に言い聞かせるようにルイスは叫び思いを吐露する。
まともな死に方が出来ないことなど分かっていたし、それで良いと覚悟していた。
死んでからも詰られ責められ糾弾されることなど予想していたし、そうすることで国が良くなっていくのならばそれで良かったのだ。
ウィリアムがそれを望んでいたのだから、ルイスにとってもそれが最善だった。
だからルイスが嘆いているのはウィリアムが死んだことではない。
市民へのアピールが叶わない法廷で裁かれずに死んだことでもない。
ただただ、ルイスは悔しいのだ。
悔しく、寂しいのだ。
いつも一緒だと言ってくれた兄が、自分を置いて一人逝ってしまったことが悔しくて寂しい。
悲しい。
だってもう、いつも一緒にはいられないのだから。
ウィリアムのいない世界になど価値はないと、これからも一緒にいたいと、そう願うルイスの気持ちを彼は知っていたはずなのに。
「どうして、一緒にいてくれないの…」
ウィリアムと一緒に死にたかった。
今から追いかけるように死んだとしても、今この瞬間にウィリアムはいないのだから、ルイスは独りなのだ。
アルバートもいないこの世界で、ルイスはたった独りきり。
生きてほしいというウィリアムの言葉がまるで呪いのようにルイスを縛る。
生きていたくないのにウィリアムの言葉には逆らえない。
何も考えず思うがままに今すぐここから身を投げてしまえば良いのだろうか。
そうして不意に動いたルイスの肩を、すかさずシャーロックが掴み寄せた。
「追いかけるつもりか」
「…だったらどうだと言うんです?法廷の場に出て裁かれようと、僕に待っているのは死だ。どうせあなたは僕達がしたことの証拠を集めているのでしょう?それを世間に公表してしまえば結果は変わらない」
「…犯罪卿の思惑が露わになって、この国は平等に近付くってか?」
「えぇ」
遮るものが何もないまま、ルイスは目の前の男を睨みつけた。
ルイスがあれだけ望んだウィリアムとの終わりを共にしたのはこの男だ。
ルイスが知らないウィリアムの最期をこの男は知っていて、ウィリアムの計画すらも上回る推理で自分達をここまで追い込んだのだ。
自分だけではシャーロックに敵わないことをルイスは知っている。
今更戦うつもりも殺すつもりもなかった。
「…あんた、生きてるんだな」
「…何が言いたい」
「あんたが今生きてるのは何でだって聞いてんだよ」
「…おかしいですか?僕が生きていては」
「死ぬ覚悟があるって割にはここに来るのも遅かったし、何があったのか分からねーがそんだけボロボロの格好ってことは、おまえ本当はリアムと一緒にここに来るつもりだったんだろ」
「よくお分かりですね、さすが名探偵」
「それなのに、全てが終わってからおまえは今ここにいる」
「…うるさい」
淡々と口を開くシャーロックの声が耳障りで仕方がない。
まるでウィリアムに置いていかれたことを思い出させるようなその言葉の数々は、わずかだとしても正確かつ確実にルイスの精神を蝕んでいった。
間に合わなかった自分を嘲笑っているように感じられて、頗る気分が悪くなる。
「ルイス。おまえ、リアムに生きろって言われたな?」
疑問ではあるが断言するかのように、深い深い海を思わせるようなシャーロックの瞳が赤く燃えるルイスの瞳を貫いた。
「…っ…な、にを…」
言葉の意味を理解した瞬間、ルイスは目を見開いて前にいる男を凝視した。
掴まれた肩が痛い。
痛いけれど振り払うことも出来なくて、それどころか全てを見透かしたようなこの男に言い知れない恐怖を感じた。
ウィリアムと対等に凌ぎ合うだけの知力を持っていると知ってはいたが、これではまるでウィリアム本人に心を見透かされているようではないか。
「おまえはリアムと一緒に来るつもりでも、リアムはおまえがいないことに一切の戸惑いを見せなかった。まるで始めから自分一人でここに来るつもりだったかのようにな。つまり、リアムとおまえの間で解釈の齟齬があったってことだろ」
「…」
「そうなると、付いて来ようとしたおまえを止めた奴がいる。犯罪卿の関係を洗いざらい調べきれた訳でもねーけど、それでもおまえとリアムの関係が深いことくらい調べは付いてる。リアムは一人で来るつもりだった、おまえは二人で来るつもりだった…おまえを止めたのは、リアムだろ」
「…だったら何だと言うんですか」
「…死ぬ覚悟を決めてるっつーのにわざわざ置いてきたってことは、リアムはあんたを死なせたくなかったってことだ」
「…!」
いくつもの想像が混ざっていて、とても論理的推理とは言えない。
それでも死の間際で冴え渡っている彼の勘は恐ろしいほどに鋭くて、ルイスの心を簡単に抉ってみせた。
「リアムはあんたに生きて欲しかったんだな」
生きてね、ルイス。
つい先程聞いたばかりのウィリアムの声が頭に響く。
ルイスが最後に聞いた大事な言葉なのに、よりにもよってこの男に推理され、上書きされてしまったのだ。
どうしてウィリアムの考えが彼に分かるのかはどうでもいい。
けれど、自分よりもウィリアムの考えを理解しているようなシャーロックだけは許せなかった。
「っおまえが兄さんを語るなっ!」
掴まれていた肩を渾身の力で振りほどき、目の前の憎い男から距離を取る。
怒りと混乱で心臓が壊れそうなほどに高鳴っていた。
「おまえに、おまえに何が分かるっ!?生まれ落ちた家が上流で、飢えて死ぬ恐怖もなくのうのうと生きて、挙句自分の興味にばかり全てを費やして!幸せな人生ばかりを歩んできたおまえに、兄さんの何が分かる!!!」
孤児だった頃からずっと一緒だったルイスの半身。
未来も希望もない最下層の暮らしをしていたのに、その精神はとても清らかで真っ直ぐだった。
ルイスにとっては唯一の光みたいな存在で、彼のためならば何でも出来る、してみせると思うほどに大事な人だった。
少ない犠牲で大きな利益を得ようと最大限に頑張ってきた兄のことを、この男は何も知らないだろう。
美しい大英帝国を見るため、膿んだ悪魔は自分ごと全て消し去ると豪語したのだ。
日々を己の好奇心にばかり費やしていた男なんかに語られるほど、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティは軽い存在ではない。
「何も、何も知らないくせに…全てを知った風な口を利くなっ」
荒れた喉を追い詰めるように大きな声で叫び、ルイスは息を切らしながらシャーロックと対峙する。
絶対に視線は外さず、次にふざけたことを口走るのならこのまま滝に突き落としてやると心に決めながら、兄譲りの迫力を全身に漲らせて睨みつけた。
「…知らねーよ」
「…何?」
「俺はリアムのこともおまえのことも、推理に必要だった部分でしか知らない。おまえの中のリアムはおまえだけのもんだ」
睨みつけるルイスの視線を物ともせず、シャーロックは淀むことなく言葉を紡ぐ。
その言葉に偽りはなくて、真実だけを正確に伝えようとする様子が垣間見えた。
「リアムが何を考えてたか知る方法はもうない。だから俺が今分かる状況で推理したまでだ。あんたが今ここで生きてるってことは、リアムがあんたを生かそうとした結果ってことだろ。…リアムにとって、あんたが大事な存在だったってことだろ」
置いていかれたと、ルイスはそう思っていた。
生きてほしいと願われたとしてもルイスは一緒に死にたかったし、ウィリアムがいるのであればどこであろうと眩しいばかりに尊い場所だった。
大事だからこそ一緒にいたかったのに、ウィリアムにとってはそうではなかったのだ。
ウィリアムにとって大事な存在とともにいることは重要ではなくて、大事な存在に相応しい結果こそが重要だった。
彼が望んだのはルイスだけでも生きるという結果だ。
そこにルイスの意思は関係ない。
「…一緒だって、いつも一緒だって、言ってたんです」
「…そうかよ」
ウィリアムすらも認めたこの男に、自分はウィリアムにとって大事な存在だった、と言われても響くものはないはずだ。
それなのに、ウィリアムにとって自分はただただ必要のない存在だったのかと、崩れかけたルイスの心にその言葉は自然と入ってきてしまった。
やっぱりルイスの思いはウィリアムに届かなかったのだ。
双子のようによく似た外見なのに、根本を成す考え方はほんの少しだけ食い違ったまま、解れることなく今日まで来てしまったらしい。
ルイスにはウィリアムの気持ちが分からないけれど、シャーロックにはウィリアムの気持ちが分かるのだろう。
彼もきっと、大事な人にはどんな形であれ生きていてほしいと願う人間なのだ。
「…生きろ。生きて、ちゃんと罪を償って、リアムがここまで作った世界をちゃんと見ろ」
「…うるさい」
おまえに言われなくても分かってると、音にはせずに口にした。
冷たい地下牢で言われたウィリアムの言葉が蘇る。
生きてほしいと言われてしまった今、ルイスは死ぬことが出来ないのだ。
ウィリアムの言葉はルイスにとって絶対だ。
逆らうことは出来ないし、きちんと裁かれるその日までルイスは死ぬことが出来ないのだろう。
そうしてウィリアムもアルバートもいないこの大英帝国で、ルイスは独りぼっちのまま死んでいく。
愛しい人が誰も存在しないこの世界で、ルイスは独り生きていかなければならないのだ。
「…行くぞ」
シャーロックに掴まれた腕を振り払うことなく、ルイスは人形のようにただぼんやりと足を進めていった。
死にたくても死ねない。
ウィリアムが理想とした英国をこの目で見届けて、悪であるならば貴族すらも裁かれるのだという現実を世間に知らしめなければならないのだ。
生きて、見て、死んで、責められ詰られ、そうしてやっとルイスはウィリアムとアルバートと同じ場所に行けるのだろう。
叶うならばまたウィリアムの弟として出逢いたい。
そして今度こそ、差別や偏見のない世界で日の当たる場所を歩き、手を取り合って生きていきたいと思う。
ウィリアムが望む結果をルイスが実現したと分かれば、彼はルイスのことを褒めてくれるだろうか。
褒めてくれたら嬉しい。
たとえウィリアムがルイスを置いていこうとも、ルイスはひたすら彼のために在りたいのだから。
(生まれ変われるのならば今度こそ、ウィリアム兄さんとアルバート兄様と、いつも一緒にいられますように)