国境の島
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191225-12250157-nksports-ent&fbclid=IwAR1nNK2fl3Pnjz3aYvWqBELbOznjMEixH9ZOs9Cd2iyR4TQPFS2w2PQ3jE8 【梅宮アンナ、亡き父辰夫さん愛用釣り道具を形見分け】 より
「私もその昔は、五島列島へ良く一緒に行きました。。さむ~い雪の降る中を、イカ釣りをしたり、学校休んで1週間福岡に滞在したり よく、父は、私を連れて行ってくれて。巻き餌担当の私でした」
私の父も島でゴルフをよくご一緒しました。改めてお悔やみ申し上げます。
五島高資 佐田さんとは懇意にしていました。晩年は梅宮辰夫さんとゴルフに行く仲でした。
https://www.ichijyo-shinya.com/keywords/2013/10/keyword07.html【理想土】
人類は古来から理想郷と呼ばれるさまざまな憧れの場所のイメージを抱いてきました。理想郷は三つに区分けすることができます。ユートピアとパラダイスとハートピアです。まずユートピアは、プラトンやトマス・モアやカンパネルラらが考えた理想都市で、時代が下ってからは社会主義者やSF作家たちが夢想しました。
次にパラダイスは、楽園や黄金時代の記憶であり、人類が淡い夢のように大切に心に抱いているものです。さらに、「島の楽園」と「山の楽園」の二つに分かれます。「島の楽園」は、東洋では蓬莱や竜宮、補陀落、西洋では『オデュッセウス』のカリュプソー、西の果てのヘスペリデスの園、シュメールの聖地ディルムンなどです。「山の楽園」は、東洋では須弥山、チベットのシャンバラ、中国の桃源郷、日本の高天原、西洋ではエデンの園、ギリシャ神話のオリュンポスなどが代表だと言えます。
そして、ハートピア。「心の理想郷」を意味する私の造語ですが、人間がこの世に生まれる以前に住んでいた世界であり、死後、再び帰る世界です。そこは平和で美しい魂のふるさとなのです。ユートピアが政治的・経済的理想郷としての「理想都」であるのに対して、ハートピアは精神的・宗教的理想郷としての「理想土」です。つまり、彼岸であり、霊界であり、極楽浄土であり、天国なのです。
リゾートをはじめとした地上の空間づくりに関わるとき、最大のヒントになるのは天国などのハートピアのイメージでしょう。なぜなら、ユートピアやパラダイスの豊富なバリエーションとは異なり、世界中の各民族・各宗教における天国観は驚くほど共通性が高く、それゆえイメージが普遍的だからです。心理学者のユングも言うように、神話は民族の夢であり、天国こそは人々が「かく在りたい」という願いの結晶。その夢や願いを地上に投影したものこそ「理想土」なのです。日本語の「まほろば」(すぐれてよい所の意)にも通じるでしょう。
一条真也
佐田啓二・高峰秀子、(「喜びも悲しみも幾歳月」映画ロケで五島に滞在していたとき)
https://blog.goo.ne.jp/murasaki_1959/e/ae4e44595b0a35a2d0f0d161a2ed4251
【灯台もと暗し。】より
万葉の時代、東の国から九州北辺の岬へ赴く兵士の悲哀に満ちた防人歌(さきもりうた)が数多く残されています。
「白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度袖振る(大舎人部祢麻呂) 」~万葉集より。
昔昔の灯台守は命懸けの大仕事だったことが伺えます。
防人とは「崎守」。
「崎」には国境の先端、海に突き出ている陸地の端、という意味があります。
灯台のある岬の「崎」は、大抵が「崎」の文字が使われていることが多いようです。
鎖国の末に開国した日本が諸外国から突きつけられた大きな要望の一つに、灯台の整備がありました。
当時の灯明台(とうみょうだい)は暗く、外国船の航海には西洋式の明るいものが必要だったのです。
灯台の近代化は、日本の近代化とともに歩んだ歴史があります。
帆船の時代には、風が止めば浜に寄るので、寄港地が数多くありました。
岬の突端は風待ちの港になっていて、街は栄えるシステムになっていたのです。
それが汽船の時代になると、停泊地はもっと街の中央寄りに接近するようになり、岬は僻地へと追いやられてしまったのです。
日本人が灯台といえば、すぐに思い浮かぶ映画【喜びも悲しみも幾年月】のような夫婦、家族住み込みの灯台守も僅かになったようです。
ところで、『灯台もと暗し』ということわざがあります。
「灯台は人を照らして己を照らさず」という意味ですが、実はこの灯台とは洋式灯台のことではありません。
家庭用の灯芯を使って火を灯す台のことです。
かって、停電の時に重宝した燭台のことをいうそうです。
http://kokkyonoshima.com/story
【国境の島ものがたり | 日本遺産 国境の島「壱岐・対馬・五島 .」.】 より
大小6852の島から成る島国・日本。日本の西端に位置する長崎県には、日本最多の971の島があります。朝鮮半島との間に飛び石のように浮かぶ壱岐と対馬、東シナ海上に鎖状に連なる五島は、古代より日本と大陸を結ぶ「海の道」の要衝であり、地理的に大陸や朝鮮半島に近いことから、融和と衝突の最前線にありました。
魏志倭人伝に記された国境の島
日本がまだ「倭」とよばれていた時代、魏(中国)の使者は、朝鮮半島を南下し、対馬や壱岐を経由して、倭の女王がいる邪馬台国を目指しました。中国の歴史書『三国志』の中の「魏志」倭人伝(*1)には、対馬国(現在の対馬市)と一支国(いきこく)(現在の壱岐市)の様子が次のように記されています。
狗邪韓国からはじめて海を渡ると対馬国に着く。山は険しく、深い林が広がり、道も獣道のようだ。良い田がほとんどなく、海産物を食べて生活し、南や北へ行き、交易をしている。対馬国を出て、また南に海を渡ると一支国に着く。海の名は瀚海という。林が多く、少し田はあるが、田を耕しても、食料が足りないので、やはり南や北へ行き、交易している。 (「魏志」倭人伝(現代語訳)より抜粋)
対馬は、韓国の釜山までわずか49.5kmの距離にあります。切り立った山々と高さ100mに及ぶ断崖絶壁が見られます。島の89%が山林で、白嶽や龍良山には、国の天然記念物に指定されている原始林が残り、「魏志」倭人伝に記された対馬の姿と重なります。このように、平地が少なく、耕地に乏しい地理的条件から、対馬では古代より船で南(日本列島)と北(朝鮮半島)を行き来し、人・物・文化の交流が行われていました。
1.「魏書」第30巻東夷伝・倭人条の通称
海の道に浮かぶ国際交流の都
壱岐は、対馬とは対照的に山地が少ない平らな島です。島内最長の幡鉾川の流域に広がる平野・深江田原には、弥生時代、一支国の王都「原の辻(はるのつじ)」がありました。日本と朝鮮半島を行き来する古代船は、壱岐島の東部にある内海湾(うちめわん)に停泊し、人や物を小舟に移して、幡鉾川を1.5kmほどさかのぼったところにある船着場を目指しました。原の辻遺跡から発見された船着場跡は、大陸の高度な土木技術を取り入れて造られた王都の玄関口にふさわしい立派なもので、日本最古の船着場跡とされています。
倭の国々の中でも、いち早く海外の情報を入手できる原の辻は、海上交易で王都を築いた国際交流都市の先駆けで、日本人だけでなく、朝鮮半島から移り住んだ人もいて、活気に満ちあふれていました。原の辻遺跡からは、朝鮮半島で作られた土器、中国の貨幣、人の顔をした人面石など国内外の多様な遺物が出土しています。なかでも、きらきらと青色に輝く中国製トンボ玉は、女性や子どもたちの心を捉えたことでしょう。復元された建物と周囲に広がる田園風景は、弥生時代にタイムスリップしたかのようです。
巨石古墳が物語る国境の島
6世紀後半以降、倭国と新羅・高句麗など朝鮮半島の国々との関係が悪化する中、壱岐では古墳が盛んに造られました。双六(そうろく)古墳、笹塚古墳など壱岐の有力者のものとされる巨石で築かれた古墳の石室(*1)内からは、中国大陸や朝鮮半島との交渉を物語る多くの遺物が発見されています。特に北斉製の二彩陶器や緑釉(*2)を施した新羅土器などは、当時の倭国社会でも限られた有力者しか持つことができなかったとても貴重なものです。壱岐の巨石古墳に葬られた者には、朝鮮半島との関係を重視して、ヤマト政権から派遣された有力者もいたと考えられています。つまり、当時の壱岐は、朝鮮半島との関係において、重要な役割を果たしていました。ひんやりと涼しい石室の中に身を置くと、巨石古墳に眠っていた人物の権勢が静かに伝わってきます。
*1. 死者を納める部屋
*2. 陶磁器の表面を覆う緑色の釉薬(ゆうやく、うわぐすり)
防人の思いに触れる国境の島
朝鮮半島では、唐(中国)が新羅と結んで、百済を滅ぼしたため、663年、倭国は百済の復興を支援するために大軍を送りましたが、唐と新羅の連合軍に大敗(白村江の戦い)。倭国は唐・新羅の侵攻に備えるため、壱岐や対馬に防人(*1)と烽火(*2)を置き、対馬には亡命百済人の技術による朝鮮式山城・金田城を築きました。防人は主に東国(*3)から派遣され、自給自足の生活をしながら、防備にあたりましたが、3年の任期を終えても故郷に帰れない者がいました。防人たちの故郷や家族への思いは、日本最古の和歌集『万葉集』に防人の歌として収められています。
対馬の嶺は 下雲あらなふ 可牟の嶺に たなびく雲を 見つつ偲はも
(対馬の峰には山裾にかかる雲がない。神の峰にたなびく雲を見ながらあなたを深く思っていよう。)
金田城跡に立ち、国境の海を見下ろすと、故郷への思いを募らせた防人の姿が偲ばれます。
*1. 古代、北部九州の要地の防衛にあたった兵士
*2. 外敵の侵入などを知らせるための煙やのろしをあげる設備
*3. 現在の中部・関東地方
遣唐使旅立ちの国境の島
日本は、630年から838年にかけて、朝鮮など東アジアの情報を収集し、唐の進んだ制度や文化などを学ぶため、4隻の船に分乗した数百人の使節団(遣唐使)を派遣しました。遣唐使船は当初、壱岐・対馬を通り、朝鮮半島を経て中国大陸に渡っていましたが、663年の白村江の戦い後、新羅との外交関係が悪化すると、五島から東シナ海を横断し、中国大陸に入る危険な航路をとるようになりました。
当時の船の構造、航海技術では、無事に帰国することは難しく、遣唐使たちは日本で最後の寄港地であった五島で航海安全を祈り、決死の覚悟で旅立ちました。
最澄と空海は、804年の遣唐使船に乗って五島から唐へと渡り、最新の仏教の教えを学んで帰国しました。その後最澄が天台宗を、空海が真言宗を開いたことは有名で、対馬・五島には、彼らに関する伝説が残っています。
遣唐使たちが最後に見た日本の風景・五島。目の前に広がる東シナ海を眺めていると、空海が残した「辞本涯(じぼんがい)(*1)」 という言葉が心に響きます。
*1. 日本の最果てを去るという意味。
日朝交流を支えた対馬藩と朝鮮通信使
対馬は、古代から、地理的に近い朝鮮と交易をして生活しており、室町時代には、対馬島主・宗氏を中心とした朝鮮貿易が行われるようになりました。ところが、豊臣秀吉の朝鮮出兵(*1)により、日本と朝鮮の国交は断絶。朝鮮との貿易に頼っていた対馬にとって、朝鮮との国交回復は死活問題でした。
秀吉の死後、初代対馬藩主の宗義智は、朝鮮へ使者を何度も送り、国書を偽造するなどの危険を冒しながら、両国の関係修復に奔走し、1607年、江戸時代最初の朝鮮通信使(*2)の来日に成功しました。以来、約200年の間に12回、朝鮮通信使の来日は続き、対馬藩が日本と朝鮮との外交実務を一手に担いました。
隣国同士が200年以上も平和的関係にあったことは世界史的にも稀なことで、その根底には対馬藩に仕えた儒者・雨森芳洲の「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」という精神がありました。その言葉は、今日の国際交流に通じるものがあります。
*1. 1592年(文禄元年)の文禄の役、1597年(慶長2年)の慶長の役
*2. 朝鮮国王の国書を日本の将軍まで届ける大人数の外交使節団
八潮路を別ける岬や秋の空 高資ー 場所: 大瀬崎灯台(悪人ロケ地)
http://turutaya.com/setumeiHTML/ooswzakisetumei.html 【大瀬崎灯台】 より
日本の灯台50選・日本の夕陽100選
大瀬崎灯台(おおせざきとうだい)は、
長崎県五島市玉之浦町、大瀬崎の断崖にそびえ立つ灯台。
灯台としての規模は大型であり日本屈指の光達距離を誇る。
東シナ海を航海する船舶の標となっている。(wiki)
大瀬崎灯台の歴史
五島列島は昔より中国とを結ぶ航海の要衝であった。日本における最初の灯台は、664年に防人に遣唐使船の目標になるよう昼は烽火(のろし)をあげ、夜はかがり火を焚かせたのがその始まりとされている。
五島は、航海の要地であるとともに漁業基地としても昭和初期までは重要視される。着工は1876年(明治9年)で、イギリス人のR・プラトンの設計といわれる。10 mあまり屹立していた岩石を切り落として基盤とし、ここに灯台を築いた。初点灯は1879年(明治12年)で、総工費は当時の額で3万円だった。
大瀬崎の山頂にある無線電信所は、日露戦争の日本海海戦の端緒となる、「敵艦見ゆ」の第一報を受信した歴史もあり、この山は電波山と呼ばれた。1945年(昭和20年)8月7日には、米軍の潜水艦による20分間の艦砲射撃をみまわれ、その一発は灯台丸屋根を貫通したがレンズには損傷がなかった。このとき米軍は灯台の背後の山にある、無線電信所を目標としていた。
1971年(昭和46年)に改築され現在の白い円塔の灯台となる。少なくとも昭和末期までは灯台守がいて、灯台のふもとに居を構え監視していたが、現在は無人灯台である。
初代の灯台躯体は船の科学館に屋外展示物として復元されている。
https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/shigoto-sangyo/suisangho/gyogyo-gaiyo/248778.html
【各海区の漁業の紹介(8海区)】 より抜粋
五島海区
五島海区は、中通島以南の男女群島を含む五島列島で構成され、長崎県の西に位置しています。東は五島灘、西は東シナ海に面し、黒潮本流から分岐して北上する対馬暖流と、列島付近にできる沿岸流との影響から、西日本有数の好漁場を形成しています。海岸線は、大小百あまりの島々やリアス式海岸で変化に富み、形成される静穏域には海面養殖の適地が多く、また、磯根資源も豊かです。
ここでは、一本釣や延縄をはじめ、まき網、刺網、たこつぼ、採介藻、魚類や真珠等の養殖、定置網など様々な漁業が営まれています。浜浦々には、漁協や民間業者などにより、定置網や養殖によって生産された魚介類を原料とした漁村加工が行われています。