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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.CHOPIN、年が明けたルドヴィカの元へサンドからの催促、そして、サンドが迎えた養女とは

2019.12.27 08:35

フレデリックは母がパリに来なかった寂しい新年を迎えた。しかし、「まだ諦めたわけではない」と、ユスティナが言っていたようにフレデリックも希望は捨ててはいなかった。

フレデリックは1846年の年が明けても1845年から書きかけの舟歌と幻想ポロネーズを完成させねばならなかった。

1月2月、厳しい寒さのパリでいつもならば真っ先にショパンが咳に悩まされるのだが、この冬はショパンはサンド一家よりも元気だった。3月になり、サンドがワルシャワのルドヴィカへ宛てて何の魂胆であるか、それは相変わらず饒舌に人の心を操るかのような書簡を送っていた。「たとえショパンがあなたを愛していても、私はいつもあなたを愛していることを繰り返し言いたいです。

彼が手紙に封をして郵便局に持っていくほんの1分前に私は急いであなたに愛を送る、それは私の心の底から湧いてくる愛なのです。

あなたは信じてくださっていることと思われますが、私共は、あなたの幸せとあなたの善良な母親と最愛の子供たちの健康を祈っているのです。

フレデリックはかなり元気です。

三月というのは、二月に比べて、異常気象だったのですが、天気はとても明るくて暖かかったのですが、とても寒くてみじめな月です。今では、絶えずにわか雨や雲があり、変化する不確かな空はすべての気分があります。」

サンドは母ユスティナからは自分が嫌われていることは想像がつくのだ。

ユスティナからの送金は父ニコラスが亡くなってからないのだ。その代わりにユスティナがフレデリックのためにサンドへ送金をしていたのだ。

サンドは現金なのだ、お金が入ればそれなりにワルシャワの家族へ書簡を書き、入らねばたいして書かない事があるのだ、それをフレデリックのせいにして言い訳を書いているのだ。そして、サンドは更にお金をたかるために回り持った言い方をして人を惑わせるのだ。

「今では、絶えずにわか雨や雲があり、変化する不確かな空のすべての気分があります。

それにもかかわらず、私たちの親愛なるフリデリクは病気ではなく、私の意見では、彼はまだ彼のレッスンの仕事で一生懸命働きすぎているのです。」

サンドは善人ぶるが、金使いが荒いサンド一家のためにショパンは休む暇がないのだ。

サンドはルドヴィカへくどくどと続けた、「フレデリックは、その一方で、活動しないことは落ち着かなず、彼の熱心な気質に合わないのです。

もうすぐ私は彼を偶像崇拝する弟子たちから遠ざけ、彼をノアンへ連れて行きます。

彼はそこでたっぷり食べて眠り、少しは作曲をしなければならない。私の子供たちはとても元気です。私には三番目の若い親戚がいて、その一人は不運な状況にあり、私が家を与えた人です。彼女はきれいで金のように善良です。彼女と付き合うことは、ソランジェにとっても私たち全員にとっても好都合なんです...。」サンドは、全くショパンを理解していなかった、少しは作曲…、曲が作り出せなければ作曲家として終わりなのだ、ショパンはこの頃、

目先のお金の仕事に振り回され、演奏会もなく作曲もさほど順調ではなく悩んでいたのだ。

そして、サンドはお金がないというのに、更に厄介な問題を持ち込んだのだ。それは、ノアンの館に出入りしていた芸術家に人気の娼婦が歳を取り、今ではサンド自身もロゼールも呼び物にならなくなったため、サンドは人助けだという名目でサンドの姪の娘で妾の子供を金で買ったのだった。そして、サンドは最もらしいことを並べながらも、家族が増えたからお金が足りないのだとルドヴィカへ伝えた。

更に、サンドは3月末から4月頃、再度ルドヴィカへ宛てて書いた。

「親愛なる最愛のルドヴィカへ、

私にあなたの愛情を与えて下さりあなたはとても親切なので、私は心からそれをあなたへお返します。」

ルドヴィカからお金を受け取ったサンドはそう語った。そして、

「あなたが使った私はパリの私の部屋が私は好きです。そして、私は再びあなたに会うという夢を諦めていません。私たちの親愛なる坊やは、長く続いた厳しい冬に非常に疲れていましたが、天気が良かったので、彼は非常に若返り、非常に生き返ったように見えます。 

2週間の晴天はすべての治療薬よりも彼には良いです。彼の健康は大気の状態と結びついているのです。

この夏に家族と一緒に旅行するのに十分なお金を稼ぐことができれば、彼を次の冬の最も厳しい3ヶ月間は南フランスに連れて行くことを真剣に考えています。

1年間、風邪から彼を守ることができれば、

彼は咳をから逃れるために18ヶ月過ごすことができるのです。私がそう彼に言っているにもかかわらず、彼はパリを愛しているので、私はそれについて彼を苦しめなければならないでしょう。

しかし、彼から何もかもあまりにも奪いすぎずないようにお弟子さんたちも居ることですので、私は彼にパリで9月、10月、11月を過ごし、ノアンに戻るまでの5月の終わりまでは彼に時間を与えてもいいと言っているのです。これが来年までの私の計画です。これにあなたは同意いただけますか?…。」

サンドはルドヴィカから送られたお金だけではフレデリックの健康も保証できないとルドヴィカに伝え、そして、南フランスへ行くためには、ルドヴィカが送ってきたはした金では足りないのだと主張した。あなたの大事な弟フレデリックは私が面倒見ているのですよ、とルドヴィカを追い詰めるサンドだったのだ。

オーガスティン・ブラウト

 娘のソランジェとショパンが仲がいいことを恨んでいたジョルジュ・サンドは、1846年1月から、姪のオーガスティン・ブラウトを自分の養女に迎えた。