Praying
2019年、令和元年も大詰め。
締めくくりにと、いつもの湖に出掛けた。
望みがとても薄いのは分かっていた。
たかだか周囲4キロのこの小さな湖で、ほんの数人が執拗に狩りを行えば、簡単にレインボーは枯渇することを見せつけられた年でもあった。
物事を単純化して考えることは、人生においては時に必要かもしれないけれど、自然に相対する時には、やっぱり慎重な方が良い。
格好いいレインボーに出会いたくて、毎年放流を行うアングラーたち。
それを食べるために釣る人間。
悲しむ人間、喜ぶ人間、ニジマスは放たれた環境で他の魚を食いながら必死になって生き延びたのだろうが、結局人間に殺されて食べられた。
しかし、もしかしたら他の小魚たちはホッとして喜んでいるのかもしれない。
主人公を変えたスピンオフ作品を作れば、きっと色々な見方が出来るだろう。
だけど、結局、僕の心はやっぱりこの凍りついたガイドのように冷えきっている。
どんなに複雑化して考えたところで、「釣りたい」「出会いたい」という想いが僕たちをここに連れてくるのに変わりはない。
そんなアレコレを頭の中で巡らせながら、僕はキャストを繰り返した。
果たして一体、氷点下何度だったのだろう。
日陰と霧島おろしと言われる山からの寒風が冷たさを襟元や袖口に運んでくる。
だけど、この寒さはなぜか、僕にとっては心地良い。
この日はわざと1人きりになれるポイントを選んだ。誰とも話しをしたくなかった。
また、一日中ここから動くつもりもなかった。
朝9時を過ぎ、やっと陽光が差してくる。
と同時に、湖面が華やかに色づきだす。
微風にそよがれた朝霧はまるで生きているかのように小躍りし、輝きながら、震えながら立ち昇ってゆく。
目の前に当たり前にあることが実は美しいということに気付けば、少しだけ人生は豊かになる。
僕はしばらくロッドを置いて、景色を眺め、シャッターを切ることに集中した。
そう言えば、夏目漱石が「草枕」の中で、しきりに詩境(しきょう)について書いてたなあ。
あの主人公は画家だったけど、結局逗留中に、1枚の絵も描かなかった。
でも、身の回りに湧き上がる森羅万象に対する感動は素直に表す人物だった。
今ならほんの少しだけ、あの主人公の詩境が分かるかもしれない。
コーヒーと、カメラと、ロッドを交互に持ち替えながら風と小鳥が奏でる心地良い音色に耳を傾け、時間を過ごす。
午前10時。
このスプーンに40アップの魚がヒットしたけど、手前に走ってこられた末にジャンプ一発でフックオフ。
果たしてレインボーだったか、バスだったか。
昼過ぎ。
寒さと寝不足で疲労が溜まったのか、突っ立ったまま寝てしまいそうになる。
一本の杭になりながらふと空を見上げると、どこまでも続く青空の中、たった1つだけ雲が浮いている。
風が対流しているのか、僕の目の前にずっと留まって少しずつ、少しずつ形を変えている。
僕は何だかとても嬉しくなり、じわじわとした高揚にずっと浸されていた。
言葉に出来ない幸福感。いつもは眠っている脳の中の感覚が目覚めたようだった。
結局最後までノーフィッシュ。しかしこの日、森羅万象が僕にくれたものは魚の数では測れない。
もちろん魚釣りは遊び(Playing)だ。魚のクチバシに針を刺して、自分の手元まで持ってくる遊び。
しかし、それだけではない。
よくよく心を開いて、周りを見渡せば、かけがえのない自然の懐に抱かれていると気付く。
その幸福に感謝することは、ただの週末レジャーをしばしば敬虔な祈り(Praying)へと昇華させる。
たとえ魚がいなくても、この湖でキャストすることをやめられない理由がここにある。
何はともあれ、今年ももうすぐ終わろうとしています。
月並みだけど、健康で何事もなく過ごせたことにまず感謝したい。
皆さまもどうぞ、良いお年をお迎えください。