お姉さん
一番上の姉の話です。 私と長女の姉とはとても歳が離れています。
私が小学生の時に姉が言いました。
姉:もし今度の試験で頑張ったら、何でも好きなものをご馳走してあげるよ。
私:本当? 頑張るよ。
私は好きなものが食べられるということで、そのために勉強したのでした。
そして努力の甲斐あって、良い成績を収めることが出来たのでした。
私:こんなに出来たから、約束通りご馳走してくれる?
姉:いいわよ。
姉と私とで渋谷の食堂街に行ったのでした。 私はかねてからフルーツポンチが食べたいと思っていたのでそれを注文しました。 その頃は今と違って卵やバナナが高級品で病院の見舞いに持っていったほどだったのです。今の時代ですと高級メロンにあったたでしょうか。
フルーツポンチにはクリームの上にバナナが乗っています。
姉:それでいいの? もっと注文していいのよ。
私:それだけでいいよ。
私は遠慮してそう言いました。
その時食べたフルーツポンチは期待にたがわず、とてもおいしくて、今でも忘れることが出来ません。
姉は高校を卒業した後、編み物が好きだったので毛糸店などに勤めたのでした。
そして、最終的には大手都市銀行の寮で食事等を世話するため、住み込みで勤務したのでした。
その間、熱烈な恋愛をしたようですが、結婚には至りませんでした。 そして生涯独身を通したのですが、愛した人をいつまでも忘れられないようでした。
そして定年を迎えて一人で西荻窪のアパートに住み始めたのでした。
次女の姉は長女の姉と時々会って食事などを一緒にしていたのですが、次女は嫁いでいたのでそれ以上は無理な状態でした。
それで一人で病気でもしたら大変なので、私はその頃から姉への接触を始めたのでした。
定期的にアパートを尋ねて姉の健康状態を確認したり、その後の生活をどうするか聞いたりしたのでした。
姉は将来、公的な養老院に入ることを望んでいました。
姉は自分一人で生きていきたいが、保証人だけはそうもいかないので、迷惑はかけないから、その時は保証人になってくれないかと依頼されたりしたのでした。
しかし、公的な養老院に入ることは制限が厳しくて何時になるか分かりませんでした。
数年たって、姉が急にこんなことを言い出しました。
私は生身の人間だし、何時死んでしまうかもわからないけれども、その時死んだ後、どうしたらいいか考えてきたの。そうしたら、ある医科大学に献体制度というものがあって、私が亡くなると私の身体が若い医学生の実験台になるの。 それで医学の向上に私の身体が役に立つの。
一種のボランティアね。 その代り、医科大学で葬儀と病院の共同墓地への納骨をやってくれるの。
私:そう。 お姉さんがそれを望んでいるのなら、それで良いんじゃないの。
姉:それでお願いだけど、私が亡くなったときに医科大学に連絡するのはあなたが
やってね。
これがその連絡先よ。
私:わかりました。
姉はその医科大学に多額の寄付をしたようでした。
それから更に数年がたったのでした。
姉の楽しみはテレビと読書のようでした。
健康には気を使っていたようですが、知らない間に病魔が襲っていたのでした。
姉は何時の日にか乳癌になっていました。
姉:私は様子がおかしいので近くの病院に行ったら、乳癌だったの。
もう手後れだというの。
それで、もうしばらくしたら入院することになるの。
あと4ヶ月ぐらいの命だというの。
私:わかった。何でもするから、遠慮なく言ってね。
その後、二人の姉と私と3人で外で食事をすることになりました。
場所は吉祥寺の中華飯店でした。
私は約束の場所に行きましたが、何時になっても二人は現れません。 待っている前のエスカレーターがむなしく上下していました。
私はおかしいなと思い手帳を確認しましたが、手帳への記入ミスで本当は1週間後だったのに気がついたのでした。
1週間後に3人で楽しく中華料理の食事をしました。 楽しいひとときなのですが、今後のことを思うと悲しい気分も時折襲ってくる複雑な心境でした。
とうとう、姉が病院に入院しました。 姉はいちごが大好きだと言うことなので、見舞いのたびにいちごを持っていきました。 姉はそれをおいしそうに食べました。
姉は一人部屋の特別室に入りましたが、全部自分の貯金でまかないました。 ただ、もはや自分の貯金の管理は自分では出来ませんので、病院の支払い等を含めて私に全部まかされました。
私が会社にいるときに病院から姉が危篤に陥ったとの連絡が入りました。
私はすぐに駆けつけました。 また、家族や親戚に連絡しました。
姉は呼吸困難な状態に陥っていました。 私はその姿を見て急に悲しくなり、大きな声で
姉の耳に叫んだのでした。
おねえさ―ん
姉には私の声が届いたような感じでした。 私は姉のこれまでの生涯を思って、涙が止まりませんでした。
姉が亡くなった後、私は献体のための医科大学に連絡したのでした。
すぐに医科大学から迎えの車がやってきました。
姉が若い医者の卵たちの実験台になるのはすぐではありませんでした。
1年後に医科大学から連絡があり、冷凍した姉に会うことが出来るというのでした。
私と次女、三女の姉と妻との4人で新宿の医科大学に行ったのでした。
姉はまだ生きているようでした。 まるで映画の冷凍人間を見ているようでした。
もし生きたまま冷凍になったら、未来に生き返ることが本当にできるのでしょうか?
それから、更に1年後に献体にふされたとの連絡が医科大学から入り、多摩墓地で共同の葬儀がしめやかに行われたのでした。
献体した人の名前が一人ずつ読み上げられました。 私は亡くなった姉の番になって、お花と御線香を上げ、姉の冥福を祈ったのでした。
これだけ多くの人の献体のお陰で、病院での手術が成功するのであって、又医学が進歩するのであることを改めて実感したのでした。
私は医科大学に姉の分骨を望み、同じ多摩墓地の私達の墓に御坊さんと親戚を呼び、納骨をしたのでした。
私のボランティア
2001年9月著述
私は学生の頃から、かねがね社会福祉とか、ボランティアに関心を持っていました。
会社に入社してから、私は英会話のサークルに入ったのですが、それが縁でボランティアにつながったのでした。
先輩がサークルのメンバーに誘いました。
先輩:今度、山梨県の塩山にキャンプファイヤーに泊りで行く計画があるんだけど、
行ける人は行きませんか?
泊まる場所は大学のサークルの山小屋なんだけど。
私:それは楽しそうですね。 ぜひ、ご一緒させて下さい。
私達、若い男女はとてもそれを楽しみにしていました。
いよいよ、その日がやってきました。
中央線の新宿から乗り初めて、かなりの時間をかけ塩山駅に着き、それからタクシーを使って山の上まで車で上れるところまで上ったのでした。
そして、それから山小屋まで徒歩で行ったのでした。 途中には小さな別荘などが建っていました。
山小屋はかなり前に建てたと見えて、古い感じでしたが、雨露は充分しのげる感じでした。
先輩:大学の二人の友人はもうすぐ、自家用車で来ると思いますよ。 彼らは学生の時に
知り合って、もう結婚しているんですよ。
私達はそれまで近くを散歩がてら、薪とりをしようということになったのでした。
季節は初秋であり、山にはさまざまな草花が咲いていてとても綺麗でした。 山のいただきから見る景色はさわやかな風も吹いて、とても爽快でした。
帰ってみると、先輩の友人は既に山小屋に着いていました。
私達:はじめまして。 よろしくお願いします。
先輩の友人:はじめまして。 こちらこそ、よろしくお願いします。
私達は早速、キャンプファイアーの準備にかかりました。
水は近くに流れるせせらぎの小川の水でした。 火は山小屋で薪をたいてご飯などをつくったのでした。 とても、原始的なやり方ですが、それが又良いのでした。
それから、私たち若い男女は外で火を囲みながら、談笑しつつ夕食をしました。
とても、おいしい食事でした。 音楽をかけて、ダンスなどもしたのでした。
夜もふけて、誰かが言いました。
『上を見てごらん。 人工衛星が動いているよ。』
私達は星空を見上げました。 天の川がはっきりと見えて、他の星たちもたくさん光っていました。 本当に星が降ってくるようでした。
山の上は空気が澄んでいて、星空が本当に良く見えるのでした。
私:何処に人工衛星があるの?
サークルのメンバーが言いました。
メンバー:ほら。 あそこの方角だよ。
私:本当だ。 飛行機みたいだけど、あのスピードだと飛行機じゃないですよね。
確かに、人工衛星ですね。 人工衛星が見られるなんて、素晴らしいですね。
私は感動して、そう言ったのでした。
メンバー:あ! 流れ星だ。
私:本当だ! なんだかプラネタリウムみたいですね。
私は本末転倒みたいなことを言って、皆に笑われてしまいました。
夜は山小屋でランプに火をつけて、お菓子を食べたり、ビール、ジュース等を飲みながら皆で談笑したのでした。
(導入部分が長くなってしまいましたが、本題に入ります。)
先輩が彼の友人に言いました。
先輩:ところで彼がボランティアをやりたいって言ってるんだけど、何か紹介してく
れないかね。
私:よろしくお願いします。
先輩の友人は学生時代からボランティアをやっていて、その方面に知り合いが多いとのことでした。
先輩の友人:君は何ができるのかね。
私: 中学生の英語の家庭教師だったら、なんとか出来ると思いますけど。
先輩の友人:そう。 それじゃ、心当たりがあるから、帰ったら、あたってみよう。
後日、連絡するから、待っていてください。
私:分かりました。
楽しいキャンプファイヤーも終わって、何日かがたってから、私は自宅で先輩の友人から電話を受け取ったのでした。
私:過日は大変お世話様になり、ありがとうございました。
先輩の友人:いやいや。 ところで、ボランティアの件だけど、ある養護施設に事情を話したところ、基本的にはオーケーとのことなんだ。 ただ、詳しくは電話で聞いてみてください。 電話番号をこれから言うから、書き取って下さい。
私:分かりました。
私は電話番号を書き取り、早速その養護施設に電話をかけたのでした。
私:ボランティアの件で、友人から紹介を受けたものですが。
養護施設の責任者:はい、話を聞いておりますよ。
でも、本当に良ろしいんですか?
私:どういうことですか?
責任者:受け持って下さる中学一年生はみんな棒なんですよ。
私:おっしゃっていることがわかりませんが。
責任者:すべての科目の成績がオール1なんですよ。
私:何ですって!
私は耳を疑いました。 でも、私はそれ以上の最悪はないと思って、すぐに言ったのでした。
私:それでも結構です。
それから、私は養護施設を訪れました。紹介された少年はおとなしそうな少年でした。
両親を自動車事故で亡くしたということでした。
でも、その少年は学校から帰ると小さい子を入れて、それまで遊んでいたのでした。
そして、養護施設の人が言うにはいくら勉強しなさいと言っても、みんな遊んでばかりいるということでした。
私:もし、このままですと彼らは中学を出てからどうなるのですか?
施設の人:何か勤めに出る子がほとんどです。 しかし、しばらくすると転職してしまうせいか、その後はほとんど連絡がありません。
それから、一週間に一回、その養護施設に家庭教師として通うことになったのでした。
一学期も既に終わり、学期は二学期に入っていました。
しかし、私はテキストを二学期からやっても、仕方が無いのでテキストの最初からやり直したのでした。 一緒にテキストの音読をしたり、訳したり、単語を書かせたりさせたのでした。
最初は順調な滑り出しでした。 それで、なんとか二学期は終わったのでした。
しかし、二学期の成績は相変わらず、1でした。
私の情熱が冷めかかったときに、擁護施設に行ってもその子が出たり、出なかったりして、家庭教師の状態を続けることが困難となり、ついにやめざるを得なくなったのでした。
私は挫折したのでした。
日本テレビの人気番組、電波少年の『ケイコ先生と坂本ちゃん』のようなわけにはいかなかったのです。
坂本ちゃんがケイコ先生のお陰で成績が上がったのは本当に素晴らしいことでした。
この番組は世の中に感動を与えたのですが、私の場合には自分に失望を与えたのでした。
私はがっかりしながらも、図書館で社会福祉の本を読み、ボランティアのこと調べたのでした。
そして、雑誌であるボランティアサークルが会員を募集していることを知ったのでした。
そして、電話をかけて、新宿のそのサークルを訪れたのでした。
そのサークルは新宿のマンションにあり、ある社会福祉団体の一室を借りていたのでした。
私:雑誌で会員の募集を見た者ですが。
会員:そうですか。 ようこそ、いらっしゃいました。
会員の人は上品でとても好青年な人でした。
私:具体的にどういう活動をなさっていらっしゃるんですか?
会員:京王線の調布に養護施設がありまして、原則として月に一回その子供たちを
郊外に連れ出して、一緒に遊んだりするのです。 親代わりというか、お兄さん、お姉さん代わりというか、そんなところです。 毎回、参加対象の学年は違うのです。
それと勉強のために、その他の養護施設や養老院などを訪問したりするのです。
そして、時には研究会・討論会なども開くのです。
私:そうですか。 ぜひ、私も入れて下さい。
今度は自分一人でのチャレンジでないだけに、多少気が楽でした。
そして、月に一回高尾山や秋川渓谷などに養護施設の子供たちと一緒に遊びに行ったりしたのでした。
会員は若い男女でサラリーマン、OLそして、学生もいたのでした。
みな何かの志や若き日の情熱をもって、参加していたのでした。
そのうち、弟もこれを知って参加してきたのでした。
この会の活動への参加は何年も続きました。 そして、ある雑誌に私の活動のことも載ったのでした。
年齢を重ねるうちに年長になり、何か私達より若い人とギャップを感じ始めました。
また、そろそろ自分の結婚のことも考えなければいけない年代になってきたのでした。
そして、弟と私のボランティアは終局を迎えることとなったのでした。
でもボランティアには年齢は関係はないと思っています。
50歳をこえた、今なお、定年後は何かのボランティア活動を再開したいと思っているのです。