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ドイツ&オーストリア紀行

2003.12.30 02:01

2003年2月著述

1998年 7月

ドイツとオーストリアには娘と観光旅行に行ったのでした。

1.ドイツ

ドイツで最初に着いたホテルで感じたことはドイツの夜は本当に暗いということでした。ホテルの窓から見ると夜空に月が出ているのですが、その感じが恐いのです。

いつドラキュラや、お化けが出てもおかしくない感じでした。本当にグリム童話の恐い世界が実感できたのでした。

昼のドイツはどうでしょうか?

ドイツの人々には美化の観念が強いように感じました。 道路にはゴミ一つない状態です。

そして、家々では草花を植えていて、ベランダや窓からはその花が外に向かっていて、道ゆく人の目を楽しませているのです。

ライン川

ライン川クルーズでライン川観光を楽しんだのでした。

川の片方の崖の上には小さな城も見えます。 その中はホテルやレストランになっている城もあるとのことです。

そして、傾斜した地面にはぶどうの木が植えられています。 ワイン作りのためです。

船は進み、やがてローレライの歌で有名な場所にやってきました。船の中ではローレライの音楽が流れています。

私:そうか。ここで昔、船がよく遭難した有名な場所なのか。

見たところ何も変わったこともないような場所でしたが、歴史の重みとその音楽がが私を感激させたのでした。

ライン川を降りると、ワインの販売所に案内されました。そこで試飲したワインの味は格別においしいものでした。

冬に採取したぶどうのワイン(アイスバイン)は最高級品で甘くておいしいものでした。

ハイデルベルク

大学の学園都市、ハイデルベルクは私にとって感慨深いものがあります。なぜなら、大学での第二外国語にドイツ語をとって、ハイデルベルクはそのテキストブックに載っていたからです。大学生の時にはこんな所に来れたら良いなと漠然と思っていましたが、それが現実のものとなり、夢のような感じでした。昔写真で見たイメージ通りの町並みで、ここでも歴史の重みを感じたのでした。

しかし、ヨーロッパではオレンジ色の屋根が多いのには驚かされます。何しろ日本では黒の瓦に慣れていたのですから。

ここではハイデルベルク城を見学しました。 城の上から見下ろすハイデルベルクの町並みは川を挟んで、それはそれは美しいものでした。

夜になるとレストランでビールを飲みながら、食事しながら、音楽を楽しんだのでした。他の外国人たちは音楽に唱和していたのですが、日本人はしらけた感じで周りの雰囲気についていけない感じでした。おそらく、外国人から見たら日本人は面白くない変な人種と思っているのではないでしょうか。

ローテンブルク

ロマンチック街道の途中にローテンブルクはありました。

ロマンチックとは貴族や騎士とお姫様との恋愛イメージと思っていました。

しかし、そうでもなくてローマへの道とでもいうイメージなのでした。

ローテンブルクはおとぎばなしの国と言っていいでしょう。しかし、テーマパークではなく、本当に住人が今でも暮らしている所なのです。このような形で生活が継続できることは本当に驚きです。なぜなら、今にもおとぎばなしの主人公が出てきても不思議でない中世の雰囲気があるからです。

ここで娘と私は市庁舎の展望台に登ったのでした。 階段は大変狭い回り階段でした。しかし、最上階に上ってみた展望は本当に素晴らしいものでした。

風をまともに受けながらも、回りの田園風景を十分に楽しんだのでした。

ここでは1年中クリスマス商品を扱っている楽しい店がありました。

そして、建物の上には定刻になると人形が出てきて鳴り出す歴史的な面白い時計台もあるのでした。今ではこのような時計台をモデルにしたものを東京の新宿のデパートに見ることができるのです。

ノイシュバンシュタイン城

ドイツでの観光の圧巻は何と言ってもノイシュバンシュタイン城です。

17年の歳月と国家予算の乱費による美しい城。

ルートヴィッヒ二世はワーグナー歌劇に狂気とも言える情熱をそそぎ、このたぐいまれな城を作り上げたのでした。もし彼が謎の死を遂げなければ彼のビジョンはとてつもないものに進んでいたことでしょう。

国民の多大な負担の上に作られたこの城は後世になってディズニー映画やディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったのでした。世界で最も美しい城の一つに違いないと思います。そして今ではドイツの観光資源のドル箱的な存在になっているのです。このような歴史上の不条理は世界にいくつでもその例を見ることができるのです。フランスのベルサイユ宮殿もその一つと言えるでしょう。

2.オーストリア

(1)ザルツブルク

モーツアルト生家

モーツアルトは音楽における天才といわれています。彼はたいした努力もしないであれだけの偉業を成したのでしょうか?

当然それなりの努力をした上でのことだと思いますが、彼の天性には計り知れないものがあるのでしょう。平等の世界観から見れば人間世界での天才・凡才の存在は不条理に写るかもしれません。しかし、現実である以上しかたありません。

このような現実を嘆くのではなく、人それぞれに与えられた適性を生かすことに努力することが大切なことだと思います。

しかし、いくらモーツアルトに天性があっても、それを生かす環境がなければ、その天性は花開かないのです。モーツアルトには音楽の都、オーストリアという環境があったのでした。

これは他の分野でも真理です。ひとは自分の適性を生かしたければ、環境を選び、良き先生、切磋琢磨できる良き友をもつことが大切だと思います。

(2)ウィーン

美術史博物館

この美術館にはハプスブルク家が集めた素晴らしい美術品が収蔵されています。

私はここでブリューゲルの絵画を見て感激したのでした。娘は初めてのヨーロッパ旅行で、この美術博物館を見てそのスケールの大きさに圧倒されたようでした。

日本の美術館、博物館とは比較にならないのですから。

プラーター

自由時間に遊園地にある観覧車に乗るために娘とやってきました。

その観覧車とは映画『第三の男』のシーンにある観覧車でした。

小さいのですが今も当時と同じ形で懐かしい感じのものでした。

名優、オーソン・ウェルズの名演技のシーンが脳裏によみがえってきて、

私は感慨ひとしおでした。

アメリカでの家庭訪問

2002年1月著述

私は1982年、アメリカのペンシルバニア州、ピッツバーグにあるカーネギー・メロン大学の経営大学院でシステムの短期講習を受ける機会に恵まれました。

そこでの10日間程度の学生生活は私にとっては夢のような生活でした。

ホテルから大学までの間には博物館やフォスターの像などがありました。

大学のキャンパスには芝生が張り詰められており、リスが木に上ったりして遊んでいてのどかな環境でした。

大学院での教授の授業は当然英語の授業なのですが、同時通訳がついていましたので助かりました。

当時の日本ではインターネットはまだ試行錯誤の状態でした。 しかし、既にアメリカの大学では教授と学生の間でレポートの提出をインターネットで行うことが当たり前の状態になっており、驚いてしまいました。

学校が終わってから、アメリカでの家庭訪問のメニューが用意されていました。

私はそのために事前に日本で日本らしいお土産を用意しておいたのでした。

デパートで扇子、こけし、日本の美しい風景写真集などを買っておいたのでした。

家庭訪問は2回にわたって行われました。

1回目はイギリス系アメリカ人の家庭でした。

午後の6時ごろに主人が自動車でホテルまで迎えに来てくれました。

私達は2人で訪問することのなっていました。

6時半頃に郊外の一戸建ての家に着きましたが、主婦とその子供達が迎えに出てくれました。

家の中の応接間や食堂は中学の英語のテキストブックで見たような感じでした。

主婦はとても美人でチャーミングな人でした。 アメリカ英語のような省略化された発音でなく、正統派のイギリス英語のような発音で話されました。

私達は充分英語でコミュニケーションがとれたわけでもありませんでしたが、おいしい食事をご馳走になりながら歓談したのでした。

その中で大学に行く途中にあったフォスターの像や彼の歌について話したのですが、

フォスターについてはあまり知らなかったようでした。

また、日本からのお土産もとても喜んでくれました。

私達は主人にまた自動車で送ってもらい、ホテルに9時頃に着いたのでした。

2回目の家庭訪問は1回目とは様子が変わっていました。

この家庭訪問は相手のボランティアでなりたっており、民間における日米親善的な役割をもったものでした。

6時を過ぎてかなりたっても、相手の人が現れません。 他のグループのメンバーは既に全員、出迎えをうけて、残されたのは私達、男二人になってしまいました。

『どうしたのだろう?。』 私達二人は 多少不安になってきました。

7時を過ぎて、やっと相手の人が現れました。 相手の人は中年の女性でした。

『遅れて申し訳ありません。』 と言って、早速自動車に乗せてくれたのでした。

相手の人はドイツ系のアメリカ人でした。 すぐに相手の家に着くと思ったのですが、

そうではありませんでした。 ホテルから車で1時間ぐらいかかる所にやっと着いたのでした。 既に夜もふけて、真っ暗な中を彼女のアパートに着いたのでした。

彼女はそこに独りで住んでいる独身女性でした。

『これで家庭訪問といえるのだろうか?』 私はすこしいぶかりましたが、『日米親善の一環なのだから、特段の問題はないし』と思いました。

私達二人は英語があまり得意でありませんでしたが、その分相手の女性が気を使ってくれました。 相手の女性は食事の世話や私達との話とかで大変でした。

女性:ピッツバーグの何処を見学されたのですか?

私:観光に来たわけでもないので、あまり見た所はありません。

女性:そうですか。 それではお食事が終わりましたら、そちらのホテルから近い丘の上にご案内いたしましょうか?

そこからのピッツバーグの夜景はとても素晴らしいんですよ。

私達:そうですか。 それは有り難いですね。

私達はその時、気楽に答えたのでした。

ここでの食事はとてもおいしく、又お土産にも喜んでもらえたのでした。

時間は午後10時近くになっていました。

私達:もう遅いのでおいとましなくては。

女性:そうですか。 それではお送りいたしましょう。

私達はさっき来た道を又車で1時間ぐらいかけて帰っていったのでした。

私達のホテルに近づいた頃、彼女は言いました。

彼女:この上の方がさっき言った見晴らしの良い丘です。

既に時刻は11時近くなっています。

私:もう遅いのでこれで結構です。

彼女:お疲れですか?

私達:そうでもないのですが、遅いし、申し訳ないので。

彼女:それなら、もう少しですからご案内しましょう。

私達はその後、丘の上に着いたのでした。 丘の上には素敵なレストランがありました。

私達はその前の場所から夜景を見たのでした。 それは香港や函館の夜景のように素晴らしいものでした。 暗い中に、家々のライトが星のように美しかったのでした。彼女はそこから見える野球場やアリーナなどを説明してくれました。

その後、私達がホテルに帰ったのは午後12時近くになってしまいました。

彼女はその後自宅に帰るのに更に1時間かかるのでした。

私達は彼女にお礼を言うとともに、とても本当に申し訳ない気持ちになったのでした。

翌朝、私達の帰宅が12時近くになったことと、相手が独身の女性だったことで、インストラクターに心配させるやら、他のグループからとやかく言われてしまいました。 私達は何のやましい所がないことを弁明するのに必死でした。

私は昨夜『疲れたので申し訳ありません。』と言って、彼女に夜景を見ることをお断りすべきだったと、後悔したのでした。

本当に彼女には結果として夜遅くまで付合わせてしまった。 後悔と感謝とが一緒になって私の気持ちは複雑でした。

しかし、印象が強かったせいか、今でも『ピッツバーグの丘からの素晴らしい夜景』を鮮やかに思い出すことが出来るのです。