『面汚し』著者:鋤名彦名
浴室は甘い匂いで満ちていた。チョコレートソース、生クリーム、イチゴジャム、マーマレードジャム。多量に買い込んだそれらの製菓材料は一時間ほどでほとんど空になった。僕は手に付いたチョコレートソースを蛇口のお湯で洗い流す。脱衣所に置いてあったスマホを取り、カメラを浴槽で仰向けになっているミユキに向ける。ミユキの頭部から顔、首元の辺りはチョコレートソースで、胸元から臍の辺りまではイチゴジャムとマーマレードジャム、腹部から下は生クリームで汚れている。まずは全身が写るように撮り、それから顔、胸、下半身とそれぞれの部位をスマホに収めていく。ミユキは自分が汚されていることに興奮し、自らの両手で乳房を愛撫した。それから右手を生クリームに塗れた股間へ持っていき自慰行為を始めた。彼女の体温で溶けだした生クリームが指を動かすごとにくちゅくちゅと音を立てる。手に付いていたイチゴジャムとマーマレードジャムもそこに微かに混ざり合う。ミユキは喘ぎながら口を開け舌を伸ばした。僕はチョコレートソースのボトルを手に取って何度か振り、底に僅かに残っていたチョコレートソースを彼女の舌へ垂らす。スマホのカメラを写真モードから動画モードへ切り替え、彼女の舌を捉える。粘度のあるチョコレートソースが徐々に舌先から口腔へと垂れていく。浴室の照明がチョコレートソースをてからせ、その舌はまっさらな土地に建つ艶やかな塔のようにより際立って見える。ミユキは小さくイクっと言って絶頂し、びくびくと身体が軽く震えていた。
ミユキとは出会い系で知り合った。それ以来月に二回ほど会い、彼女の性癖であるメッシープレイをする。メッシーとはいわゆる汚れフェチのことで、汚されることに性的興奮を覚える人種のことだ。僕はミユキに会うまでそんな性癖が存在することを知らなかったし、あとで調べて分かったことだが、メッシープレイを行っている企画モノのアダルトビデオも出回っていることを知った。
もちろん僕が出会い系で女と会って変態行為に現を抜かしていることを妻である美雪は知らない。僕がミユキと連絡を取ったのも、妻と同じ名前だったからという理由だけだ。今妻の美雪は病院のベッドの上で寝ている。半年前、美雪は信号無視で横断歩道に突っ込んできた軽自動車に跳ねられた。僕の目の前だった。美雪は二メートルほど吹き飛ばされ、アスファルトに側頭部を強打した。すぐさま病院に搬送され奇跡的に一命は取り留めたが、それ以来意識不明で眠り続けている。医師からはいつ意識が戻るかは分からないし、もし戻ったとしても頭部に後遺症が残ることは避けられず、元の生活を送れるとは限らないのだという。
美雪とは週に一度はセックスをしてた。二人の間に子供はおらず、特別子作りをしようというわけでもなかったのだが、頻度としては結婚以来そのペースを保っていた。美雪の入院後、僕は自慰の回数が増えた。週に一度ではあったが僕はセックスの機会を失い、入院手続きのあたふたや、「なんであんたが側にいて美雪を守れなかったの」と毎日見舞いに来る美雪の母親からの嫌味もありストレスが溜まっていた。僕はなるべく見舞いに行くようにはしていたが、美雪の母親と顔を合わせるのが嫌になり、少しずつ足が遠のいて行った。
見知らぬ女と後腐れなくセックスが出来ればいい。出会い系を始めたのはただそれだけだった。スマホに入っている美雪との自撮りの中から比較的自分がよく写っている写真を選び、自分のところだけをトリミングする。プロフィール欄の年齢は三十代前半、職業は会社員とし、年収は実際よりやや上の項目をチェックした。あとは適当に自己紹介を書き、出会いの目的は遊び友達とした。少しするとスマホに通知が何通もやってきた。「今暇してるぅ?あたしはアソコがムズムズしてるぅ」「夫が単身赴任中。今なら家でヤリ放題」「貴方はⅯ女をいじめてくれる人?」その露骨なメッセージタイトルをスクロールして流し見ていたが、そのなかに「送信者:ミユキ」と書かれたメッセージがあったのを僕は見逃さなかった。
初めてミユキと会った時、彼女の手にはスーパーのビニール袋を提げており、その中にはマヨネーズが何本も入っていた。これから男とホテルへ行くのに明らかに邪魔になるだろう荷物を持ったミユキに「買い物帰りなの?」と聞くと「あとで言います」と少し恥ずかしそうに言った。ホテルに行き部屋を選ぶ時、彼女はフロントの小窓に「浴室の大きい部屋はどこですか?」と聞いた。「今空いている部屋で一番浴室が広いのは306です。」彼女はタッチパネルの306号室のボタンを押した。
部屋に入りお互いで服を脱がしてからシャワーを浴び、まずは型通りのセックスをした。ミユキは身長が150そこそこなのだが、胸が大きく、スタイルとしてはややいびつに見える。しかし騎乗位の時に大きく上下する乳房を見て、これは一度きりで終わらせるのはもったいないと思った。そのまま僕が射精にいたり、ぼんやりと天井を眺めているとミユキが言った。
「あの、ちょっとお願いしたいことがあるんです。」
僕はお金のことかと思い、鞄から財布を出し、いくら?と聞いた。そう言えばメッセージのやり取りでもミユキからその話はして来なかった。単純にセックスをしたくて出会い系を使っている女もいるが、ほとんどは売春や援助交際を目的として使っている。「ホ別いちご」なんて用語があるくらいだ。するとミユキはちょっとこっち来てくださいと言い、マヨネーズが何本も入ったビニール袋を持って浴室へと向かった。僕は一度財布を鞄に戻しミユキの後を追った。浴室を覗くと、ミユキはビニール袋から一本一本マヨネーズを取り出し、包装袋を剥がすと、浴槽の縁にマヨネーズを並べていた。そしてミユキは並べたマヨネーズが倒れないように大きく足を上げ浴槽に入り正座をした。
「お金は要りません。その代わりにお願いしたいことがあります。私にマヨネーズをかけて欲しいんです。」
僕はミユキが何を言っているのか理解出来なかった。「私にマヨネーズをかけて欲しい」彼女は日本語を使い、日本語で話していることは分かった。しかし、単語の並びがその意味を曖昧にした。「私」「に」「マヨネーズ」「を」「かけて」「欲しい」そうか、ミユキにマヨネーズをかければ良いのか。そう理解するまで少しの時間がかかった。その間ミユキは僕を不安そうに見つめていた。そんなことは出来ないと言って金だけ置いて立ち去ることも出来ただろう。まだ僕にはその方が簡単だった。僕はマヨネーズを一本手に取り赤いキャップを外し、彼女の頭頂部の上から恐る恐るマヨネーズを絞り出した。マヨネーズは星型の口で綺麗に成形され、ゆっくりと一本のロープのように垂れていき、その先がミユキの頭頂部へ達した。一度絞っている力を抜くとマヨネーズは口元で千切れ、垂れ下がっていた部分は頭頂部へ落下し、乱雑なとぐろを巻いた。今自分がやっているこの行為は一体何なのだろうか。全裸の女の頭にマヨネーズをかける。この滑稽と背徳の混じった感覚。僕はバラエティ番組で芸人がパイ投げをしているのを思い出した。相手の顔に向かって紙皿に乗ったクリームを投げる。白く汚れた顔を見て滑稽だと笑う。そうなのだ、汚れていることは滑稽なのだ。マヨネーズが頭にかかっているミユキは滑稽な存在だ。しかしミユキは自分が滑稽だと思われているとも知らず、もっとかけてくださいと懇願している。
「わたし、汚されると興奮するんです。」
その時初めて僕はこの女が汚れフェチ、メッシーであると知った。
結局マヨネーズを全て使い終わった頃には退室時間ギリギリになっていて、僕はフロントに電話をかけ延長を申し入れた。自分もシャワーを浴びようと浴室のドアを開けると、むわっとした湯気と一緒に、お湯で温められたマヨネーズの酸っぱい匂いとシャンプーとボディソープの柑橘類の匂いが混じって鼻を付く。ミユキはシャワーで全身にかけられているマヨネーズを丁寧に洗い流し、シャンプーとボディソープで髪と身体を入念に洗っていた。部屋を出る際、ミユキは延長料金は自分が払うと言い出したのだが断った。ミユキが「また会いたいです」と言ったので、別れる時LINEを交換した。
その夜僕は自宅の冷蔵庫からマヨネーズを取り出し右手の平に三センチほどの山になるようにとぐろ状に絞り出してみた。そしておもむろに右手をぐっと握った。閉じた手の指の間からマヨネーズがにゅっと飛び出す。そのあと何度か手を開いたり閉じたりした。くちゅくちゅと音を立て、手の平全体にマヨネーズが馴染んでいく。妻が見たら何を思うだろう。いい大人が食べ物で遊ぶんじゃないと怒るだろうか。服に付くと困るからからすぐ洗ってと怒るだろうか。恐らく両方だろう。僕はあの部屋で女にマヨネーズをかけるという非日常的行為をしてきた。それは暴力的であり、滑稽であり、背徳的であった。そもそも性行為自体が暴力的で滑稽で背徳的なのかも知れない。そこに何を付け足したところでその本質は変わらない。僕は左手でズボンとパンツを下し、マヨネーズに汚れたミユキを思い出しながら、マヨネーズで汚れた右手で自慰をした。
「今日はメープルシロップでやりたい」ミユキからのLINEを確認し、僕はスーパーに寄った。ミユキの性癖とはいえ、毎回使う道具はそれなりの量と重さになるため、ある時から半分ずつ分担して持ってくることにした。僕は製菓材料のコーナーへ行き、棚にある一番安いメープルシロップを全てカゴの中に入れた。品出しの店員が不思議そうな目で僕を見る。以前イチゴジャムとマーマレードジャムを多量に買って行った男だと覚えているのだろうか。僕は店員の横を通りレジで会計を済ませた。
いつも通りフロントで306号室のタッチパネルを押し部屋へ向かう。最初に会った日以来、僕らは同じホテルを使っている。時々先客で埋まっている時があるが、それ以外はいつも306号室を使った。部屋に入り早速二人とも全裸になり浴室へと向かう。ミユキは浴槽に仰向けになり、僕はスーパーのビニール袋からメープルシロップのボトルを取り出し、いつものように縁に並べていく。今日のミユキはいつもより興奮していた。まだメープルシロップで汚していないのにミユキは自慰行為に耽り始めた。「はやくかけて」吐息に微かに声音が混ざったような声がした。僕はまず一本目のメープルシロップの蓋を取り、ゆっくりとまず彼女の胸元へとかけた。ミユキの色白の乳房が琥珀色の膜に覆われていく。乳輪が薄っすら透けて見える。ミユキはメープルシロップを潤滑油のようにして乳房を愛撫する。両方の乳房を擦り合わせ離すとその谷間には薄い膜がかかる。一本目のメープルシロップをかけ終わるとすぐさま二本目のボトルの蓋を取り、今度はミユキの額にかけた。メープルシロップは額からゆっくりと眉の上をたどり、鼻梁と目頭のくぼみに溜まっていく。僕はぐっと力を入れ一気にメープルシロップを垂らした。ミユキは洗顔するように手でメープルシロップを顔全体へ広げる。鼻から息が漏れるたびに、そこにかかっていたメープルシロップが泡のように膨らみ弾ける。続いて三本目、四本目とかけていき、そろそろ写真を撮ろうと思い脱衣所に置いてあるスマホを手に取った。電源ボタンを押し画面を点けると、そこには美雪の入院している病院からの不在着信が何件も入っていた。最初の着信は三十分ほど前で、一番最新のはほんの数十秒前だった。美雪に何かあったのだ。僕はベッドルームの方へ行き、急いでかけ直した。ワンコールもしないうちに美雪の担当医が電話に出た。「美雪に何かあったのですか?」そういうと担当医は「美雪さんの意識が戻りました」と言った。脱衣所に戻ると浴室のドアを半分開けて、メープルシロップまみれのミユキが立ってこちらを見ていた。「何かあったの?」「ごめん、もう出ないと」そう言って僕は急いで着替えた。「まだ行かないでよ」ミユキが浴室から出て僕に触ろうとする。「触るな、汚れるだろ!」僕はふいに怒鳴り声を上げていた。ミユキは怯えた表情で僕を見ると、そのまま浴室へと戻りドアを閉めた。シャワーの音がし始めたのを聞き、僕は部屋を出た。
美雪の病室に入ると、そこには担当医と美雪の両親、そして僕の両親がいた。担当医は僕を一度別室へ連れて行き容体を説明した。美雪の意識が戻り一時的ではあるが目を覚ましたこと、まだ安心は出来ないが今後の回復の見込みが立ったことを話した。僕が美雪の病室へ戻ると、美雪の両親が帰ったあとだった。僕は美雪の母親とあまり顔を合わせたくなかったので少し安心したが、僕の父親が訥々と話しだした。
「お前、あまり美雪さんの見舞いに来てないんだって?雪代さんから聞いたよ。前に来たのだって何週間か前だそうじゃないか。全部雪代さんに押し付けてご迷惑かけて。お父さんたち何回も謝ったよ。今日だって電話したのに連絡が付かない。会社に連絡したらもう帰ったと言われた。一体どこに行ってたんだ?お前は妻が入院している間、見舞いにも来ず、一体どこで何をしているんだ?お前はうちの面汚しだよ」
僕は美雪の病室を出た。後ろから母親の声が聞こえるが無視をした。そしてミユキに電話をかけたが、ブロックされたのか電話は繋がらなかった。これでもうミユキとは会えないだろう。僕は病院でタクシーを拾い、数時間前にも寄ったスーパーへ向かった。製菓材料のコーナーへ行くと、僕が買い占めた一番安いメープルシロップは二本だけ在庫が追加されていた。僕はカゴにメープルシロップを二本とチョコレートソース、イチゴジャムとマーマレードジャム、そして乳製品コーナーで生クリームと400gのヨーグルトを、さらに調味料コーナーでマヨネーズとケチャップをカゴに入れた。今までミユキを汚してきたもの全てを買った。
自宅へ着くと僕は早速服を全て脱ぎ捨て、買った物の入ったビニール袋三つを持ち浴室へ向かった。ミユキとやっていたように、まず買ってきた汚し道具を浴槽の縁に並べ、それから浴槽に仰向けで寝た。まずはマヨネーズを顔にかけた。手のひらにも絞り出し、さらに顔に塗りたくった。次にケチャップを顔中にかけた。ケチャップも手のひらに絞り出し、それは胸元に塗った。次にヨーグルトのアルミ蓋を取り、手でヨーグルトをすくって顔に塗った。マヨネーズとケチャップとヨーグルトの匂いが強く鼻を刺し、吐き気がした。僕は自分がどんな顔になっているのか気になり、一度立ち上がって浴槽から出て鏡の前に立った。薄目を開けて鏡を見ると、そこに映った自分の顔はナパーム弾で焼かれただれたような顔だった。マヨネーズとケチャップがまだらに混ざりピンク色をしていて、白いヨーグルトが膿のように頬から滴っている。汚い顔だな。そう思ったらなんだかおかしくなって笑いが込み上げてきた。もうやめよう、こんな馬鹿な真似はしないでシャワーを浴びよう、そう思ってまた浴槽へ戻ろうとした時、浴槽内に落ちていたマヨネーズのキャップを踏んだ。痛みで咄嗟に足を上げた瞬間、支えていた片足が床に散っていたマヨネーズやケチャップで滑った。そのままバランスを崩し僕は浴室の床に後頭部を強打した。「みゆき」とどちらを呼ぶでもなく呟くと、鼻を刺していた匂いが徐々に薄れていった。
(了)