Kii Peninsula 紀伊半島 17 (24/12/19) Domyoji Temple 道明寺
道明寺
道明寺天満宮
この三日間は古墳巡りに明け暮れたのだが、その間で古墳以外の史跡も巡ったので、ここではその史跡について書いておく。この史跡を訪れたので古市古墳群は全ては見れなかったが、この史跡もそれなりに面白い所だった。
道明寺
藤井寺にある尼寺。道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師氏の根拠地で古墳時代から勢力を持っていた。道明寺はもともとは土師氏の氏寺として土師寺と呼ばれていたが、947年 (天暦元年) に道真の号の道明にちなみ道明寺と名を改めた。寺がもともと建っていた所は、ここではなく、神仏習合時代には現在の道明寺天満宮 (当時は土師神社) であったが神仏分離令により、道明寺天満宮の隣のここに移ってきた。
901年 (昌泰4年) に、菅原道真が太宰府に流される際にこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ねたエピソードは人形浄瑠璃や歌舞伎の菅原伝授手習鑑の中の道明寺の場にも描かれている。
道明寺と言えば和菓子で広く知られているが、その起源はここだそうだ。道明寺の尼が乾燥した糯米を挽き粉状にした道明寺粉を使ったのが始まりという。
道明寺天満宮
この神社は先にも触れたが元は土師神社と言われていた。歴史を調べると相撲の神様とされる野見宿禰が埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で垂仁天皇から土師の姓とこの地を賜わり土師氏の始まりだそうだ。この地域には埴輪を焼いたとされる窯跡が多く発見されている。神社の前には窯跡が復元されていた。それに関して、昨日の古墳巡りのレポートの中で写真と説明を載せている。菅原道真はこの土師氏から分流した家系の菅原氏の血を引く。ここには、つい先ほど訪れた道明寺 (当時は土師寺) が建っていた。道明寺の所でも触れたが、菅原道真の叔母である覚寿尼を菅原道真が太宰府に流刑になる前に訪れたという事で、この地は学問の神様の菅原道真所縁の地と言う事で人気が高まり、土師神社内にも天満宮が造られた。土師神社への参拝も天満宮が中心となり、道明寺の改名からは1000年も経って、昭和27年に道明寺天満宮と名を改めている。祭神は野見宿禰の遠祖の天穂日命であるが、天満宮なので勿論菅原道真も祭神になっている。興味深いのは道真の叔母の尼僧であった覚寿尼も祭神となっている。(覚寿尼の徳で祭神になったのか? 道真の叔母でなかったら祭神にはなってなかっただろうに) 仏教の僧侶が神社の祭神になっているのは日本人の宗教観があらわれているように思える。
ここは梅の名所で社の裏には広い梅畑がある。二月頃は多くの人で賑わう。
天満宮という事で、神社内には5頭の牛の像が寄進されていた。故事にならい、やはりどの牛も座り込んだ臥牛の像だ。いつも立った牛を探すのだが、北野天満宮の立ち上がりかけたか立ちたくないしぐさの牛以外にはお目にかかった事は無い。
大坂夏の陣
この道明寺の地は慶長20年 (1615年) の江戸幕府と豊臣家の間の大坂夏の陣における激戦地となった。慶長19年 (1614年)の年の暮れに起こった冬の陣から半年も経たない内に夏の陣となる。これは徳川方の筋書き通りだった。冬の陣で和議の後に、徳川方は大坂の浪人の解雇か豊臣家の移封かの選択を迫り、豊臣方が拒否したと言うのが大義名分。徳川方は兵を三方向から大坂城に向かわし、今回訪れた道明寺で集結させ、短期最終決戦に持ち込む作戦であった。この道明寺の戦いが、夏の陣の重要なマイルストーンであった事は確かだ。ここで豊臣が勝利していれば、徳川の戦力はかなり低下して、豊臣はいずれ潰されたではあろうが、大坂の陣はもっと長引いたと思われる。
5月6日、大和路から大坂城に向かう幕府軍35,000を豊臣勢が迎撃した戦いで道明寺・誉田合戦と呼ばれている。この戦いでその後の勝敗が決したと言える。
道明寺の戦い
大坂方のこの作戦は元黒田家家臣の後藤又兵衛基次が立てたと言われている。徳川軍の一隊が、東から生駒山を越える大和路 (奈良街道) を通る事を予測し、主戦場は道明寺から国分村になるだろうと考えていた。当時の奈良街道は今の様に広くはなく大群が一斉に通る事が難しい狭隘 (きょうあい) 路とであった。国分村がその隘路 (あいろ) の出口になるので、徳川軍の個々の部隊が国分村に入る時が、攻撃のチャンスと見ていた。後藤又兵衛が立てた作戦を以下の様に Google Map で作ってみた。
① 後藤又兵衛6千がまず道明寺口に移動、真田幸村、毛利勝永の1万2千が道明寺口に合流。徳川ぐんは未だ奈良街道で国分村には到着していない。
② 高台の小松山に布陣。徳川軍はそろそろ国分村に到着し始める。
③ 後藤隊と真田/毛利隊で国分村に入った徳川軍の部隊をひとつづつを挟み撃ちにする。
④ 徳川軍が全て国分村に入り切った後、道明寺の北8kmの八尾/若江方面から木村重成率いる6千、長宗我部盛親率いる5千が移動して徳川軍の側面を突く。
というもので、これであれば、兵力に劣る豊臣軍にも勝機がある。しかし、実際にはそうはいかなかった。道明寺で合流を予定していた真田/毛利隊が濃霧の為、到着せず。しかも徳川軍の動きは予想していたより早く、後藤隊が到着した時には、既に全軍が隘路を通過し、国分村に布陣していた。この段階で徳川軍の個々の部隊毎に攻撃する計画は崩れた。といっても、徳川軍の侵攻を阻止しなければ、大阪城が危うくなる。後藤隊はすぐさま小松山に移動して、真田/毛利隊がまもなく到着するという想定のもと、単独で徳川軍3万3千を迎え撃った。後藤隊は奮戦し、ここの戦いでは徳川軍の部隊を、驚く事に、8時間にもわたって苦しめるのだが、いかんせん多勢に無勢、同日の正午頃に伊達の片倉小十郎隊の銃弾で討死となった。
この合戦図作った後に良い図を見つけた。戦場となった場所の地形がよく分かる。
八尾・若江の戦い
八尾方面から敵の脇腹を衝く計画であった木村/長宗我部隊 (総勢1万1千) も濃霧で思うように進軍できず、長宗我部隊は京の伏見から河内街道を通り道明寺に向かう5万5千の徳川軍の先鋒 藤堂高虎の5千と衝突。これを粉砕。(八尾の戦い) 一方、木村隊は若江で井伊直孝の5千6百と激闘の末、木村が討死。(若江の戦い) 長宗我部はこの局所戦では藤堂高虎に勝利はしたものの、かなりに兵を失い、大坂城へと引き上げた。この戦いは 八尾・若江の戦いと呼ばれている。
誉田の戦い
真田/毛利隊が正午過ぎに道明寺付近に到着した時には後藤又兵衛は既に討死しており、残兵が国分村/道明寺から誉田に敗走してきていた。一方、徳川勢は既に石川を渡り、残兵を追撃し、この誉田にまで兵を進めていた。ここは古市古墳群がある場所。ここで大阪夏の陣が繰り広げられたのかと思いながら古墳を巡った。恐らく、ここにある古墳は当時の合戦の陣などに利用されたと思われる。ただ、今はほとんどが住宅街になっており、古戦場の名残は感じられない。この誉田の戦いでは真田幸村と伊達勢との戦いが見ものだ。真田隊は伊達軍の先鋒の片倉小十郎重長隊の騎馬隊に襲撃されるが、真田はこれを十分にひきつけて鮮やかに撃退し、伊達勢を道明寺辺りまで押し返した後に、葛井寺まで後退し毛利勢と合流、豊臣軍は葛井寺から誉田の西にかけて布陣し、対する徳川軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、両軍にらみ合いの状態になり、膠着状態となる。夕刻に大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が伝えられ、豊臣軍は真田を殿軍とし、順次天王寺方面へ撤退を開始、徳川軍の水野勝成は追撃を主張するが、伊達など徳川軍の諸将は午前の道明寺と午後の誉田の戦いでの兵の疲労を理由に応じなかったという。午前の道明寺は8時間と午後の誉田も7時間と言う激戦であったからこれは最もな事だろう。この豊臣勢の退却で、残念ながら、後藤又兵衛の策は失敗に終わり、翌日の天王寺・岡山の戦いへと続く事になる。
余談だがこの真田と片倉の間にはエピソードがある。大坂夏の陣の折に勝者となった側は「乱妨取り」と言われる敗者側の者をさらっていく事が黙認されていた。片倉軍も例に漏れず乱妨取りを行い、本国に連行、その中で侍女となっていた阿梅が真田幸村の三女と分かり、片倉小十郎重長が側室と迎え、正室が江戸で逝去の後は、阿梅が継室となった。戦場で戦った敵の娘を正室にする程、真田の誉れは高かったのだろう。浅からぬ縁が真田家と片倉にある。
こちらの方が分かりやすい。
大坂の陣はもう数日続くのだが、その史跡めぐりは、次に大阪に来た際に大坂の陣の所縁の地巡りをしてみたい。