Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

一号館一○一教室

【創作】緑

2019.12.31 15:00


これが最後の大会になるとわかっていた。



私立の推薦は受けないと進路指導の教師に伝えるよりも前に、緑は陸上を辞めると決めていたからだ。



走ること。それが彼女が他人に誇れる唯一のものだった。緑は勉強も絵も得意ではないし、どちらかというと地味で目立たない少女だった。しかし、運動会のクラス対抗リレーは毎年アンカーを走り抜き、地域のマラソンではいつも学年代表に選ばれた。

右足で地面を蹴り、左足を地面に設置させる。その逆。その繰り返し。ただそれだけのことで、ほんのひとときだけ、学校の、地域の、クラスのヒーローになれた。



幼い頃はゴールで止まらなければならないのが嫌だった。走りはじめたら、どこまでも行きたい。学校のトラックを走るより、近所の林道や田んぼの回りをジョギングする方が好きだった。

だから緑は中学で陸上部に入ると迷わず中長距離の選手になった。



ゴールを越えて走り続けたいと何度も思った。アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』みたいに。誰にも邪魔されず。

前方に誰かがいるのは許せなかった。緑はなんとしても先頭に立とうとした。そして、必ずそうした。

けれど、去年はじめて出場した関東大会で彼女は、誰かの後ろを走ることになった。そこが緑の限界だった。

あの時、高校では陸上をやらないと決めたのだ。



別に走ることが好きだったわけではないのかもしれない、と緑は思う。

(わたしが好きだったのは)

「位置について」

(多分、一番になることだったんじゃないか) 

「用意」

(だから、今日は、絶対に) 

「パン」

ピストルの音と共にランナーが動き出す。緑は勢いよく地面を蹴り飛ばし、先頭に進み出る。

(誰の後ろも走らない)



右の視界の端に人影がちらつく。

緑は少しペースを早め、それを後ろに追いやる。

スッハッスッハッ。

呼吸音が近づく。すぐ後ろに熱気を感じて、汗が一筋、背中を伝っていく。

もちろん振り返ったりはしない。太ももに力が入るのを感じる。

こんなペースで3000m持つかと思ったが、後悔するよりはましだ。



一昨日切ったばかりの襟足に風が吹き込んでくる。気持ちがいい、と緑は思った。

母は緑の髪型を見て、

「またそんなざんばらに短くして」

と呆れていた。

彼女は娘に、陸上よりももっと女の子らしく振る舞ってほしいと感じているようだった。

おあいにくさま、と緑は思う。髪型や振る舞いと陸上は関係ない。



最後のコーナーをトップで曲がる。

「行け、深沢」

あの声は斉藤君だろうか。

「みどりーー」

美津子と愛が一緒に叫んでいる。遠くにいるはずの部員たちの声援がここまではっきりと聞こえてくるのは不思議だった。幻聴だろうか?



最後の直線。後ろのランナーたちが緑を追い抜こうと体勢を整える。その殺気に背後から刺され、緑の肌が粟立つ。

呼吸が上がり、鼓動が早まるのを感じる。リズムを崩さぬようにすればするほど、足がもつれそうになる。

苦しい。

両隣のランナーが追い付いついてくる。



緑は全神経を前方に向け、奥歯を強く噛んだ。歓声が高まる。

右足で地面を蹴り、左足を地面に設置させる。その逆。その繰り返し。ただ、その繰り返しだ。

緑はひたすら足に力を込め、ゴールのはるか先を見つめていた。