Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

彩ふ文芸部

『朝(その1)』著者:Arata.S

2019.12.31 13:32

毎朝、目覚めると煙草を吸う。

一吸い目は軽く、ただ肺を動かす。

二吸い目で幸福な気分になる。

脱ぎ捨てられた魂がまるで煙と共に立ち昇っていくように。

マットレスに横たわる肉体と精神が徐々にズレていく。

夢の中身が胸に跨っている。

なにが地動説だ、天動説だろうが馬鹿野郎、と呟く。

天井がホロスコープのように無機質にスライドして相貌を崩す。

タバコの新鮮な毒素は起き抜けの身体にあっという間に浸透した。

冷たい血がつむじからつま先へサーっと流れていく。

毛穴から細かい汗をかく。寒気を覚える。十二月の霧雨のただ中のよう。

五分間が三十秒ほどに感じる。まぶたの裏には切れかけた蛍光灯のようなチカチカした点描。

仰向けのままその感覚に身をゆだねていると、一日が終わってしまう気さえする。

幸せな感情はぽっかりと浮かんであっさりと消え去った。

気だるさと差し迫った尿意だけが残されている。

幸福感はすでに黒雲となり頭上を覆い離れない。

昨晩飲んだ薬は切れていないだろうか。

免疫がついていずれ効かなくなるのだろうか。

それならかかりつけの心療内科を増やさなければならない。

毎日違う医者と面会し処方箋をもらい、薬局をハシゴして薬を受け取るというのはどうか。

無糖のコーヒーを飲み、

髭を剃り歯を磨き、昨日まとめておいた荷物を担いだら玄関へ向かう。

エレベータの中で深呼吸をする。

吸い込んだ外気から枯れ葉の匂いがする。

風に吹かれる前に身を縮こませ車に逃げこむ。

運転する時、俺はいつも大声を張りあげハンドルを握る。

洗浄機の音にかき消されないように。誰かの指示に煽られないように。

きわめて明瞭な言葉が自分に反射するように。

信号待ちの女性が怪訝そうな表情で振り向く。

窓を締め切っていても俺の声が届いているらしい。

安心して声のボリュームを上げる。

目の前を走っている軽バンの運転席から吸殻が弾き出される。

フィルターから先五センチも残っている。まだ十分に吸える。

もったいない、無性にタバコが吸いたくなる。

吸いたくなるが、吸うことはまずない。

車を端に寄せて出勤を諦めると知っているから。

声は次第に掠れていく。

小さい声で北原白秋のあめんぼの歌を囁く。

アメンボは赤くない。

小エビは泳いでいない。

か行は言い難い。

さ行は空気が抜けるような弱弱しい音。

立たない。

ナメクジみたいに遅い人間。

轢かれた鳩がアスファルトに判を押す。

ま行で唇の皮が切れる。

家に帰って寝たい。

巻き舌で恫喝されるのは嫌。

終わらないお祭があればいいのに。


左手に目的のコンビニが見えてくる。

十台以上も駐車できるコンビニは区内で貴重。

道が混雑する日だろうと早朝なら関係ない。

仮に白線内が埋まっていたとしても、邪魔にならない範囲で車をねじ込むだけだ。

忍耐薄弱な社会の飼い犬のオアシス。

ふらりと立ち寄ってはぼんやりする。

寄らないと誓って意味を為した日はない。

赤いタオル頭の現場作業員がコーヒーをすすっている。

ナックファイブを流すプロボックスは定位置。

コンビニで買い物はしない。

俺はただ駐車するだけして暫くしたらいなくなる、迷惑駐車の常習犯でしかない。

基本的に朝食は食べない。

横になり煙草を吸う。

まったく美味くない。

親指に巻いた絆創膏の感触がたまらなく不快。

ひどく不味い煙草だろうが金と時間は平等にむしり取る。

こんなものをどうして吸っているのか、甚だ疑問なのに止めるに止められない。

熱が逃げ冷えきった車内で、遅刻した場合に備えたシミュレーションをする。

波風が立たないようなうまい言い訳はないだろうか。

どれも以前に使った気がしてならない。事故ったとでも言おうか。

縁石の角に擦ってタイヤがパンクしたという言い訳は使ってしまった。

そもそも、遅れたなら仕方がない。

人より早く動けばいいそれだけのこと。至極単純明快なことだ。

早く動ける人間にならないと成功しないのだから、

最小限の動きで最大限の効果をもたらさねばならない。

なめくじにょろにょろ、なにぬねの。

「に」のところが正確に発音できない。

いや、全部まともに喋れていない。

唇の瘡蓋が剥がれて血が球になった。

出よう。

時計の表示が一刻の猶予もないと告げている。

修正が効くうちにエンジンをかけねば。

一度狂った歯車は歪なまま一日中回り続けるとわかっていてなぜ、

こんなにも動き出すのをためらってしまうのか。

一切合切、棚の上にぶん投げてしまえたらどんなに楽なのだろう。

伸びきったゴムのような思考を寸断し駐車場から抜け出す頃には、たっぷりと三十分以上無為に時間を費やしていた。

車道に出てからたった数メートルで、耳障りな警告音が響く。

メーターにシートベルト未着用のサインが点灯している。

面倒くさい。無視してアクセルを踏む。

ピーピー、ピーピーとブザーは鳴り止まない。

邪魔するな、ぶち壊されたいのか。

額をハンドルにぶつける。

額の内側に甲虫が張りついている気がする。

七十メートル進んだところでベルトを閉める。

一日が既に始まっているのだとようやく気づく。

ミスをして挽回できず苛立ち、自分が自分であることを確認する。

無駄な動きが無駄な思考を手繰りよせる。

山手線のようにぐるぐる回る。

高輪ゲートウェイはもう出来たのか。


会社指定の駐車場に着くと、夏に台風せいでへし折れた桜の木が後ろに見える。幹には黄色いテープが巻きつけてある。

春にどんな姿だったのかもう忘れてしまった。

駐車場から校舎まで歩く合間、今日のメニューを復唱する。

白髪の用務員と挨拶を交わす。

側溝が落ち葉で埋まらないように黙々と掃いている初老の男性。

日々のローテーションをなぞり、職場に辿り着いたのは午前六時前。

全世界の人間が余すところなく一律に

今この瞬間、消滅してしまえばいいのに。

俺は靴を履き替えながら、そういったストーリーを思い描いていた。

(続く)