城田実さんコラム 第47回 パプアの差別事件から見えるもの。 (Vol.117 2019年9月16日号メルマガより転載 )
パプア出身の学生に対する差別事件に端を発する抗議運動は、政府系事務所の破壊と放火に加えて治安当局と市民の双方に死者を出す暴動にまで発展し、一部ではパプアの将来に関する住民投票を主張する運動も広がった。この一連の騒動に対する政府の対応には首を傾げたくなるものが少なくないが、「国際イスラムテロ組織のISIS(イスラム国)が騒動に便乗して政府を共通の敵にしようと画策している」という国防大臣発言(9月5日)には耳を疑った人が多かっただろう。
この大臣は、パプア在住者の85%がキリスト教徒で、10数%のイスラム教徒の多くも域外からの来訪ないし移住者なのでパプア人は実際にはほとんどキリスト教であるという事実を百も承知のはずであるから、この発言は、パプアの抗議行動の評判を落とすことを狙った、為にする議論と言われても仕方がない。パプアが抱える非常に複雑な問題を相変わらず治安対策としか捉えない発言が、改革の時代が定着した今になっても、軍人出身とは言え政権の主要閣僚から出たことに驚かされる。
一連の騒動の発端となった事件は、東ジャワ州スラバヤ市にあるパプア出身学生寮の敷地内でインドネシア国旗が毀損されて捨てられていたという噂を理由に押しかけたグループに軍人が加わって寮を取り囲み、数時間にわたって聞くに耐えない人種差別的な罵声を寮の学生に浴びせ続けた上に、警察が寮に踏み込んで学生を逮捕したという事件(8月16日)であった。しかも、国旗毀損の噂は後に警察でも事実無根と否定されている。(前日には同州マラン市でパプア出身学生が市長舎に向けてデモ行進中に青年グループらと衝突する事件があり、この時には副市長が「騒動に加担する学生はパプアに帰ったら良い」と発言したと報じられた)。
この事件はパプア人社会ではネットなどで一挙に広がった。しかし政府がスラバヤでの事件を人種差別として問題視したのは事件から3日も経った後だった。(スラバヤ市長が最初に人種差別を陳謝したのは8月19日) それもパプア州に暴動が広がった後であった。暴動が起きていなければ、政府は見て見ぬ振りをした可能性すら考えられる。政府の対応の鈍さは否定できない。暴動発生後も治安当局は、東部ジャワの事件に偽情報の尾ひれをつけて拡散した犯人の追求にばかり熱心で、肝心の「差別事件」の解明がなおざりにされているという不満と批判がパプア社会では広がった。パプア社会にしてみたら、被害者と加害者が逆になっているという思いであろう。
その後も当局の対応には疑問が多い。8月30日には、大統領宮殿前のデモ(8月28日)でパプア独立旗(「明けの明星」旗)を掲げたパプア出身学生ら10名が「政府転覆罪」の容疑で逮捕された。ワヒド大統領(当時)は、「明けの明星」旗をパプアの地域旗として掲揚を認めると約束したことがある。パプアの地域感情を考慮すれば、有無を言わせずに一挙に「政府転覆罪」では、いかにも威嚇的で抑圧的に見える。9月3日には、外国人のパプア地域への立ち入りを制限するとウィラント政治治安調整相が発表した。外国人旅行者と騒動の扇動者との区別を容易にするためと説明されているが、治安維持最優先だったスハルト時代へ逆戻りの印象を与えかねない。4日には、パプア住民の立場からスラバヤでの事件を国際的に発信した弁護士を「民族間の憎悪を拡散した」容疑者に認定した。
こうした政府の対応を見ていると、インドネシアにとってパプア地域は未だにかってのアチェや東チモールと同じように、治安優先の監視地域であり、そこに住むパプア人も監視対象の住民に過ぎないのだろうかと錯覚しそうである。文民大統領に率いられた政府だが、治安対策になると歴史や文化的な考慮を含めた総合的な政治判断あるいは人間的な視点が未だに入り込めないのであろうか。旧宗主国オランダとの抗争のために遅れてインドネシア共和国の一員になったパプアが、出遅れた地域開発と人種的な偏見、人権侵害の長くて苦しい道を辿ってきた歴史を考えると、事件に対する政府の対応にはパプアに対する同胞意識が乏しくないかという指摘が付いて回っている。
東ティモールが27番目の州としてインドネシアに統合された後、現地を訪問したことが3度ある(3度目は独立後) 。国連を含む国際社会では東ティモール問題が常に非難の対象にされ、日本も二国間首脳会談では議題にしていた。しかしインドネシアでは政府が、州内を一周して全県を結ぶアスファルト道路を完成させ、水利を整備して田圃を増やし農業指導員も配置したし、義務教育の学校を整備した上にジャワ島への「国内留学」制度まで作った。陸の孤島と言われたベンクルー州選出の国会議員が「独立以来の我が州が何故新参の東ティモール州に予算配分で負けるのだ」と憤慨するほどだった。ジャカルタで国家行事がある時には東ティモールの民族衣装が注目された(このように書くと、何やら今のジョコウィ政権のパプアのような感じがしないでもない)。
スハルト大統領は、ポルトガル植民地時代とは比べものにならない充実した住民福祉と快適な生活を東ティモールで実現する自信を持っていたのだと思う。その実現に使命感と誇りすら持っていたと思う。そのために東ティモール人に求められたのはただ一つ、インドネシアへの統合(プロセス)を批判したくなる民族的なプライドを捨てることだったのだろう。その頃、知り合いが東ティモール州代表の国会議員としてジャカルタに赴任し、議員宿舎に入居した。「大都会」暮らしはさすがに嬉しそうだったが、気のせいか屈託もあるようにも感じられた。紆余曲折を経て東ティモールが独立した後、彼は祖国に戻ってメディアの世界に進んだ。あの時に国会議員になったことについて、独立後に彼の心情を聞いてみたい誘惑に駆られたこともあるが、実際には質問する勇気が出なかった。
今、パプア出身学生への人種差別事件で、「種族間の融和」や「多様性の中の統一」について活発な議論が行われている。この国が取り組んでいる民族的な課題の根の深さはインドネシア人自身が身に染みて感じているのだろう。他方で、ある外国プレスが昨年、パプアで多くの子供が栄養失調に陥っている現状を取材した際、現地の諜報機関に取り調べを受けて域外に退去させられたと報じられた。その前には、英国大使がパプア訪問中に雇った12台の車の運転手が全員パプア人でなかった、と発言したことで多くの抗議を受けたと言われる。パプアをショーケースのように飾って「多様性の中の統一」をアピールする意識が残っているようだと実質のある進歩はなかなか難しいような気がする。(了)