さもなければ、人間の心に宿るすべての願いは虚しかろう
去年1年かけて、ヒルティの『幸福論 第2部』を少しずつ読み進めてきました。
年内に終わらずに、いま最終章「人生の段階」の終わり近くです。
いま、そこを読んでいて、ほんとうに、聖書に書いてあることは、ヒルティの教えてくれたことは、師匠から受けた証と啓示は本当のことだったなぁと、我が身の幸いをしみじみと確認します。
‥しかし、それでもなお、ひとつの本質的な相違が常に認められる。
まず、不安定な将来に対する恐れや憂いの気持ちが薄れてくること、また、慢心と意気消沈との間に絶えず動揺することも次第に少なくなってくることである。そうした心の状態にある間は、決して安定した気持ちは生じないものだ。だが今では、心の中に、つねに平安にしてゆるぎない確固とした一点が存在する。
心の奥底が堅固になり、これまでのような満足を求めてやまぬ渇望はもはや消えてしまっている。* その結果、自分や他人に対する忍耐力がおのずから強まり、他人に依存することも少なくなってくる。
また、あらゆる物事の本質を見抜く目が一層確かになり、そこからまたほんとうの人生の知恵も生まれてくる。
最後に、しかもこれが眼目であるが、持続的な罪の感情がなくなるのである。なぜなら、そうした感情が心にきざしても、いつでも直ちに除かれるからである。そして、自分が正しい道を踏んでおり、たえず前進を続け、かくして全生涯を立派に終えることが出来るという確信を持つことができるのである。
「正しいものの道は夜明けの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」(コヘレトの言葉4:18)のである。**
**これこそ、人の信仰をこの上なく堅固にし、今後なお襲い掛かるあらゆる信仰上の誘惑に対して、その人を最も堅固にするものである。福音書が適切にも絶えざる飢渇に比している苦しい探求を、このように鎮め、このように無くしてくれるものは、必ずや真理でなければならない、少なくとも我々にとってはそうであるに違いない。
そうした効果をまるで持たない真理は、我々にはほとんど価値がない、たとえそれが真理であるとしてもなおそうである。しかも、それが真理であるという保証はどこにもないのである。
ここにおいてわたしは知った、霊が満たされるのは、
ただ真理の光、命の泉によることを。
その真理は我らに示す、真理の他の一切は迷妄にすぎないと。
されど霊が真理を見出すとき、努力の苦しみはやむ、
そして霊は必ず真理を見出す力を持つ、
さもなければ、人間の心に宿るすべての願いは虚しかろう
ダンテ天上界第4歌124行
一心に求める者にわたしは必ず見いだされる エレミヤ書 29:13,14
*‥けれども悦びは、利己心がなくなるや否や、あるいは、無くなるたびごとに、おのずから湧いてくるのである。そのことが、この段階では、利己心が消えたことを示す確かな印なのである。君が君自身のことを念頭に置くや否や、悦びは去ってしまうし、反対に、君が君の生活を神のために、また神の言いつけで他人のために捧げるたびごとに、悦びはあらわれる。君が悦びを持つのも持たないのも、君の意思次第である。
幸福論 第2部 (岩波文庫 青 638-4)
昨年の4月から勤務している病院は救急病院なので、救命で運ばれてきて、それ以来、主治医としてお付き合いしている人たちがいます。
この病院に来る前に頭に浮かんだイメージは『ライ麦畑で捕まえて』の次の場面でした。
だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、
小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、
僕はいつも思い浮かべちまうんだ。‥
それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。
で、僕がそこで何をするかっていうとさ、
誰かその崖から落ちそうになる子どもなんかがいたら、
どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。
そういうのを朝から晩までずっとやっている。
ライ麦畑のキャッチャー(つかまえ役)、僕はただそういうものになりたいんだ。
キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)
この場面、読むと涙が出てきます、皆の無意識(守護天使というべきか)は、命がけでここまでつれてきてくれるんだなぁと。
個人的には、その皆が、ただ人にできる限界のある慰めの言葉と根本的な治癒にはつながらない薬を提供することしかできない医療による症状緩和だけでなく、本当の魂の救いにまで導かれるといいのに‥と願わずにおれません。