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「宇田川源流」 令和二年の年初放談「今年はこうなるスキャンダルと反対しかできないいつも通りの野党の政治」

2020.01.02 22:00

「宇田川源流」 令和二年の年初放談「今年はこうなるスキャンダルと反対しかできないいつも通りの野党の政治」

 さて、年初放談、はいつの間にか「政治」を「与党と野党」とで別々に予想している。

まあ、私の心としては「与党政治」は「政策」であり、野党がやっているのは「政局」でしかないのである。

そのように考えた場合、「政治」という一つのカテゴリーで「政策」と「政局」を一緒に書くのはいかがなものかというような感覚になってしまい、そのためにあえて「与党」と「野党」を分けたのである。実際に野党が政策を語るようになって、国会で政策論争が起きれば、元通りに「政治」としようと思ったのであるが、なかなかその兆しは見えない。

まあ何度も言っているのであるが、個人攻撃をするつもりはないので、名前は言わないが、旧民主党政権時に大臣または党の要職に就いた人が、いつまでも野党の上の方にのさばっているようでは、野党の体質は変わらない。

結局「批判しかしないで政権を取った誤った成功体験」を繰り返すだけであるからだ。

そのような観点で、昨年の野党政治の標語を見てみよう。


 <平成31年 野党政治の標語>

・ 参議院選挙に向けた野党調整で野党共闘が言われるが、立憲民主党中心を良しとしない人々が多くまとまらない。またまとまった野党の中でも国民の理解が得られない状態になる。それでも、自民党が議席を減らす結果になって枝野が勝利宣言をするが、結局政界は元のままで国民の政治離れが進む。

・ 野党の中に、現在の野党の姿ではだめであるとして第三極を求める動きが出る。しかし、選挙制度などからうまくゆかず、立ち消えとなる。

・ 野党が意向を行うも、日中関係、日韓関係の悪化は避けられず、東アジアの友好ということと日本国のアイデンティティという関係をこたえられる野党議員がなく、野党の支持がより一層マイナスとなる。


 昨年の参議院選挙において一部候補者調整が行われたものの、複数区では結局野党共闘とはならず、結局はまとまらなかった。

その結果はもっと自民党が負けるのではないかと予想された参議院選挙が、何とか3分の2を下回ったものの、結局は野党側は低いままの水準になったのである。実際に、野党に飽き飽きしたということが挙げられる。まあ、枝野幸男は勝利宣言はしていないものの、だいたい、今までの野党が飽き飽きされているということ、また参議院選挙などを通しても、全く有権者の意向とはピントがずれているとしか言いようがないことになっていて、今までのまま「スキャンダルしか出すことのできない野党」が継続しているのである。

このようなことを見ていれば第一の標語は「あたり」である

この二つ目の標語で言う「第三極」が「れいわ新撰組」と「NHKから国民を守る党」のことであろう。この二つの政党が出てくるというのは、既存の野党は支持を得られていないということになる。

実際に小選挙区制などが存在していながらも、その一人しか選出しない中で「れいわ新撰組」などが出てくるというのは、他の野党以外の票が集まるということに他ならない。もちろん、小選挙区制において、いくつの選挙区を取れるかわからないが「選挙区は野党候補、比例はれいわ新撰組」というような投票行動が出てくる。ある意味で「今までの野党ではだめだと思う人」がいながら、片方で「与党にはくみしない」という有権者がこのような行動になる。

ある意味で野党が変わるか、あるいは与党がこれを取り込むのかということが今後の課題になってくるのかもしれない。この「れいわ新撰組現象」は、今年どうなるのかは注目である。まあ、保守系第三極ではないにしても第三極を求めて動きがあったことは間違いがない。

このように見ていると第二の標語も「あたり」である。

さて第三の標語はどうであろうか。

日韓関係や日中関係の悪化は、まさにここの標語の通り。昨年は日韓関係最悪といわれた年となったが、少なくともそのことにおいて野党議員でしっかりとした意見を言えた人がいない。まあ、韓国寄りの変な意見を出して批判される人も少なくなかったが、「日本国の議員」としてこれを政策に落とし込める人がいないというのが大きな問題なのであった。そのことから野党の人々には外交に期待できないということが定評になってしまっており、そこことから、外交を重視する有権者からは完全に支持を失っているといえる。

もちろん、そもそも今の野党ではなく、その前の民主党政権の時から、外交や防衛、安全保障で彼らに期待している人はいない。平和主義、あるいは国際関係が全くわかっていないというのが定評である。

基本的に「平和外交」は、日本のような国の場合「土下座外交」に通じてしまい、ナショナリズム的なところが強い日本国民にとって、現在の野党のような考え方は基本的には受け入れられないというのが普通の話なのである。

そのように考えれば、野党の政治に、外圧に弱い日本国民が期待するよりはより低くなるし、そのことは日中、日韓関係に限ったことではないということになるのではなかろうか。

まあこの状況で予言が的中するといってもあまりうれしいものではないし、現在の政治をしっかりと見ている人ならば、あまりその辺のところは変わらないのかもしれない。

まあ、一応「あたり」である。


このように考えると、「野党」というのは本当に存在感がないというしかない。実際に、本来であれば、与党側または政権の政治の監視または法案においてある程度少数意見を入れて政策を修正する役目があるはずなのであるが、常に政局しか考えていない彼らのやり方は、というよりは、そもそも国民の支持もなく、支持率も少なくそのうえで、政権奪取を狙っているというこの滑稽な政局を作り出している野党は、あまりにも日本の政治の正常化から考えて異質な存在なのである。

まあ、ろくに知恵もなく、陣営も少なく、展望もなくまた戦う相手もよくわかっていない。そのようなところに支持者がいること自体がおかしいものなのであるが、まあ、適当なことを言っているということでしかない。そのために「新たな勢力」であるれいわ新撰組などに支持が集まってゆくのである。

ある意味で細川盛人が日本新党を作った時の状況に似ていて、55年体制の崩壊とその後の日本の政治の混乱は、このような「ヴィジョンのない野党が政権を目指して肥大化する」ことから行われるのと同時に、そこに便乗する頭の悪い与党の議員がいることによるものである。その代表格が小沢一郎なのであろう。相手の批判から行う政治なので、常にアンチ自民党で行うのであるがそもそも「アンチ」というのは、政治ではない。そのことがいまだに理解でき来ていない人が少なくないのが大きな問題なのである。

その小沢一郎が動いて、野党再編ということを行っている。この「野党再編」という言葉は何度目なのであろうか。実際に選挙のたびに同じ言葉を使いながら、全くその内容ができたためしがないのである。その「実行力の欠如」には驚かされるし、また、それでもまだ指示している人がいるというのが驚きなのである。日本人、それも野党の支持者というのは、本当に辛抱強いというか騙されていることを喜ぶマゾヒストなのではないかと思うくらいである。

まあ、そのようなことを見たうえで「令和二年の野党政治の標語」を見てみよう。


<令和二年の野党政治の標語>

・ 「野党再編」ということを主張して置きながら、結局やることは同じで与党のスキャンダル探ししかできない状態に、1+1=0.5という野党再編による支持層離れと、そこについていけなくなってしまった「野党再編落ちこぼれ議員」が出てきて、結局足並みが揃わない。

そこに「政権奪取を狙う共産党」が入り「野党混乱」が起きるが、結局内ゲバ体質で責任転嫁が行われ、反省もないまま現在の状況が続く。

・ れいわ新撰組は、「野党再編」の煽りから「民主党時代の議員による政治に嫌気のさした野党支持有権者」の支持を集めるが、与党からも野党からも警戒される存在となる。またれいわ新撰組の背景も様々なマスコミで現れ、結局山本太郎のパフォーマンス頼りの集団というようになってしまう。

・ 米中貿易戦争、イギリスブレグジットなど「激動」の政界情勢についてゆけず、なぜか外交問題が大きくなればなるほど、「野党としてのコメント」が全く聞かれなくなってしまう。

野党再編の影響から、野党そのものの統一した政策を出すことができず、結局外交、安全保障の部分で野党を頼れるという人が少なくなり、オリンピック外交で点数を上げる安倍政権に反比例するように支持率が一層下落する。


 まあ、このような標語にまとめてみたが、結局「野党を再編しても、国内政策、外交政策、安全保障政策を全く出すことができない」ということが最大のポイントとなる。

そのことで、他の政党が出てくればすぐにとってかわられるというような感じになってくるのではないか。そのような状況で、現在の野党そのものの存在意義があるのかということが、大きく国民的な議論を引き起こさなければならない。政治の正常化は健全な野党が必要なのであるが、残念ながら彼らにはまったくそのことがわかっていない。

以前から書いているように、「民主党政権時代の幹部」を排除したうえでしか、野党政治はうまくゆかないのではないか。そのことに気づくのはいつのことなのであろうか。