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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

~ベートーヴェンに会ってみたかったショパン、初めてのウィーン旅行で出会った王子と人々~

2020.01.02 15:06

シュヴァルツェンベルクのヨセフ2世の王子

ヨハン・ネポムク・カール・フランツ・デ・パウララディスラウス王子(1769年6月27日ウィーン‐1833年12月19日フラウエンベルク)



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シュヴァルツェンベルクのフェリックス王子(1800-1852)

フェリックス・ルートヴィヒ・ヨハン・フリードリヒ

シュヴァルツェンベルクのヨセフ2世の王子の甥

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ディートリッヒシュタイン・モリッツ(1775年2月19日- 1864年8月29日)(フランツ・ハンフシュテングルのリトグラフ1832)

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ニデツキー(ニデッキ)・トーマス

(1807年2月1日ストゥジャンカ-1852年6月5日ワルシャワ)

作曲家、指揮者。音楽家から来た彼は、1822-27年にワルシャワ音楽院でショパンと友人でした。1828年に彼はウィーンに行き、ウィーンに来ていた友人ショパンと連絡を取り合いました。

彼はオーストリアのケルントナートーア劇場の第2指揮者(1829年から)であり、ウィーンのレオポルトシュタット劇場の指揮者および舞台作曲家(1833–38)でした。1838年からは、ワルシャワでヴィエルキ劇場の歌唱学校で教鞭を執り、1840/41 – 52年にオペラの芸術監督を務めました。また、教会の聖歌隊のコンサートを率いて、1850年まで歌のレッスンを行いました。


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ヴァーツラフ・ヴィレム・ヴュルフェル

(1790年5月6日チェコ、プラニャニ-1832年3月23日ウィーン)チェコの作曲、ピアニスト、オルガニスト

彼はチェコ共和国で生まれました。1807年からプラハでヴァーツラフ・ヤン・トマシェクに師事しました。彼は1815年にワルシャワに定住し、ショパン家の友人でした。そして、彼はワルシャワ音楽院で1815年から1824年まで、フレデリックショパンを教えました。彼はショパンにピアノ協奏曲第4番ヘ長調を捧げました。1824年に彼はプラハに戻り、そこで彼のオペラ「リべザル」を上演しました。彼は晩年はウィーンのケルントナートーア劇場の指揮者になりました。


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フランツ・グリルパルツァー

(1791年1月15日 - 1872年1月21日)オーストリアの劇作家

ウィーンの弁護士の家庭に生まれ、ウィーン大学で法律を学んでいたが、大学時代に父を亡くし、母と3人の弟を養うために勉学の傍ら家庭教師をして過ごした。1814年より大蔵省に採用され役人として勤め始める。1816年、ブルク劇場の監督ヨーゼフ・シュライフォーゲルの指導の下で、処女作品『先祖の女亡霊』を執筆。1817年にブルク劇場で上演されて成功を収めた。1817年に弟の一人が入水自殺、1819年に母が精神錯乱の病で自殺、彼自身は従兄弟の妻との不倫関係に苦しむ。代表作『サッフォー』(1817年)『金羊皮』(1818年-1819年)『主人の忠僕』(1829年)『海の恋波の恋』(1829年)などで成功を収めた。

彼は生涯でルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンと何度に会いに行き、1823年にオペラ台本「メリュジーヌ」を書いたが、ベートーヴェンは作曲しなかった。彼はベートーヴェンと同じように生涯独身を通した。

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1829年8月ウィーンで開かれたショパンの演奏会に、シュヴァルツェンベルクのヨセフ2世の王子とその甥のシュヴァルツェンベルクのフェリックス王子(1800-1852)

が訪れました。まず最初にヨセフ2世がショパンの「繊細さと優雅さ」を賞賛しました。続いて、甥のフェリックス王子もショパンを褒めました。そして、恐らくは、その後で、ディートリッヒシュタイン・モリッツ王子(1775年2月19日- 1864年8月29日)もショパンを褒めました。

ニデツキー(ニデッキ)・トーマスもその場にいましたが、ショパンを褒めることは出来ませんでした。

ショパンの恩師であったヴァーツラフ・ヴィレム・ヴュルフェルは、ショパンを連れてウィーンを案内し、ベートーヴェン(1770年12月16日頃 - 1827年3月26日)の友人であったフランツ・グリルパルツァー(推測)にショパンを会わせに連れて行ってくれました。

ショパンは1829年の初めてのウィーン旅行では「ウィーンの貴族が私に夢中になっています」と誇らしげに語っていたのでした。つづく・・・