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ヒルティ喫茶:虹息

いいですか、この定めは、その理解力が、愛の火炎の中で熟さない人々の目には隠されて映ろうとはしないのです。

2020.01.04 14:37

十字架の贖いというのは、従来のキリスト教に触れていたことに影響されているかもしれません。 


 あなたは言うでしょう、「聞いたことはよくわかるけれど、なぜ神が、私たちの罪の償いのために、この手段だけをお望みになられたのか理解できない」と。  

いいですか、この定めは、その理解力が、愛の火炎の中で熟さない人々の目には隠されて映ろうとはしないのです。これを理解しようと望む人はあまたいるのですが、それをつかむ人は存外少数です。

 ダンテ『神曲 天国編』第7歌 


 スエデンボルグは次のように説明しています。 


 真の基督教95(5) 

 「主は贖罪の行為によって自らを義と為し給うた。」  

世に在し給う間、父なる神に従順であり給い、且つ特に十字架の上に受難し給うたことによって、功績と義とは、只主にのみ属するということが現今基督教会に語られ、信ぜられている。然し、十字架上の受難こそ贖罪の業そのものであったと想像されている。

然しそれは贖罪の業ではなく、彼の人間性の栄化であったのである。この事に就いては我々は贖罪に関わる章に語るであろう。  

主がそれにより自らを義と為し給うた贖罪の行為とは、彼は霊界で最後の審判を為し、悪しき者を善き者から即ち山羊を羊から分離し、天界から龍の獣達と一つになっていた者を放逐し、価値ある者によって新しい天界を、無価値な者によって新しい地獄を形成し、徐々に凡ゆる物を至る所で秩序に回復し、地上に新しい教会を建設し給うたという事であった。  

是らの行為こそ、主が自らを義となし給うた贖罪の業であった。何故なら義は凡ての事柄を神的秩序に従って為し、如何なる物であれ、秩序から離れ去ったものを再び秩序へ回復することに在るからである。何故なら神的秩序は義であるから。  

凡て此の事は、「神の義を凡て成就することは当然なり」(マタイ3・15)という主の語によって意味され、また旧約聖書の以下の語によって意味されている

「見よ、我ダビデに一つの義しき枝を起す日来らん、彼は王として治め、地に義を行はむ、その名はエホバ我らの義なり。」(エレミア23・5、6。33・15、16)

「我は義をもって語り、救うに能力あり」(イザヤ63・1)

「彼はダビデの位に坐り、之を審きと義をもて建てん。」(イザヤ9・7)

「シオンは義をもて贖はるべし」(1・27) 



 真の基督教118(2) 

 「このような贖罪無くしては何人も救われ得なかったし、また天使も純一の状態に止まり得なかったであろう」  

贖罪とは何であるかを先ず述べよう。  

贖うということは破滅から救済すること、永遠の死から救助すること、悪魔の手から捕われ縛られている者を解き放つことを意味している。この事を主は地獄を征服し、新しい天界を形成することによって成就し給うたのである。それが行われなかったならば、人間は救われることが出来なかったのである。何故なら、霊の世界は自然界と分離し得ない迄に両者は関連しているからである。  

この関連は主として人間の内的な心、即ち霊魂において行われている。即ち善い者の霊魂は天使の霊魂と、心とに関連し、悪い者のそれは地獄の霊の霊魂と、心とに関連している。この関連は極めて密接なものであり、もし天使或は霊が人間から取り除かれるならば、忽ち人間は倒れて死に、一方、彼等はもし人間が彼等から引き離されるならば生存することが出来ないのである。  

これによって、何故、贖罪が霊界に起ったか、また何故、教会が地上に建設され得る以前に、先ず、天界と地獄に秩序をもたらさねばならなかったかが明らかである。この事の真理であることは黙示録に明瞭である。そこには新しい天界が形成されてから、新しい教会である新しいエルサレムがそこより生れたと記されている。(黙示録21・1、2) 



 天界の秘義2661 

 主は天的な者を救うために世に来られたのではなく、霊的な者を救うために来られたのである。 「人間」と呼ばれた最古代教会は天的なものであった。もしこの教会がそのもとのままに止まったならば、主は人間として生まれたもう必要はなかったのである。 

しかし、この教会が衰え始めるや否や、主は天的な教会が全く世から死滅することを予見されたのであり、そうした理由からそのとき主が世に来られることについて予告がなされたのである。(創世記3・15)  

その教会の時の後ではもはや天的な教会は存在しなくなって、霊的教会が存在したのである。なぜなら洪水後に存在した古代教会は霊的教会であり、この教会は、すなわち、その霊的教会に属した者たちは主が世に来られなかったならば、救われることが出来なかったからである。このことがマタイ伝の主の御言葉により意味されているのである。

― すこやかな者は医者を要しない。病んだ者が彼を要するのである。わたしは義しい者を招くためでなく、罪人を招いて悔改めさせるために来たのである。(9・12,13) 

 またヨハネ伝にも、 

そしてわたしにはこのおりのものでない他の羊がいる。彼らもまたわたしの声を聞くであろう。かくて一つの群と一人の羊飼いがいるであろう。(10・16) 

 またマタイ伝18・11~13の百匹の羊の譬えによっても意味されているのである。 



 天界の秘義6914(4) 

しかし主が来られた後は天界と地獄の状態は全く変化した。なぜならそのとき天界の低い領域を占めた悪い魔鬼と霊とは投げ落とされて、彼らに代わって霊的な教会に属した者たちがそこへ引き上げられたのである。 投げ落とされた悪い者らは前に言ったように名誉、名声を失いはしないか、その領域で財産を失いはしないかとの恐れである外なる拘束をそのとき剥ぎ取られ、そのようにして悪魔的な奈落的なもの以外の何ものでもない彼らの内部へ入れられ、かくして地獄へ投げ込まれたのである。 外なる拘束を取り去ることは他生では悪い霊どもに結合していた善良な霊たちを引き離されると、奈落の者らは善い正しい尊いものをもはや全く装うことは出来ないで、世にいたころのその内部の状態そのままのものに、すなわち世で他の者から隠していた思考と意志の状態そのままのものになり、そのときは悪を為すこと以外には何ごとも欲しなくなる。 



 天界の秘義8054 

 主が来られる前は、天界は三つに分かれてはいず、一つであった。 霊的な天界は未だ形成されていなかった。その場所は誤謬と悪の中にいるものの外なる手段により、特に卓越と高貴とを考えることにより若干の真理と善との中に留め置かれることの出来る者らにより占められていたのである。天界のこの領域が当時そうした霊らにより占められていた理由は、善良な者が欠けており、霊的な教会に属した者たちが未だ準備が出来ておらず、それでも凡ゆる場所は主から人間に至る連続性が存在するためには[主が人間と連続されるためには]霊らにより占められねばならなかったということであった。なぜなら連続性がないなら人間は死滅してしまったからである。 



 天界の秘義10152 

 「父」と呼ばれる神的なものそれ自体は「子」と呼ばれる神的な人間的なものなしには、このこと(地獄と天界を秩序づけること)を遂行することが出来なかったのである。  

それは人類が神的なものからそれ自身を全く離反させてしまったときは、神的なものそれ自体は神的な人間的なものなしには人間に達することは出来ず、天使にさえも達することは出来ないためである。 



 黙示録講解740ロ 

 十字架の受苦は主の最後の試練であり、凡ゆる地獄に対する完全な勝利であり、また主の神的なものの神的な人間的なものとの完全な合一であり、このことは誤謬の信仰の中にいる者らには知られてはいないため、主は「おまえは神に属している事柄を考えないで、人間に属する事柄を考えている」(マタイ16・23)と言われたのである。 



 以上、浪々ポントスさんのホームページからです。 

 ポントスさんのページはとても重宝しますが、スエデンボルグからキリストに倣いてに行き、最後にはなぜかマリア崇拝に行ってしまったので(母性に飢えていたのかなぁ‥)、全面的には参考にできなくなってしまいました‥。 スエデンボルグもはっきりとマリアは‘聖’母ではないと明記しているのですが。 

母マリアが無原罪の御宿りで生まれたのであったら、イエス様を生涯苦しめ続けた肉の十字架はなかったことになり、人類の贖いはできない話になります‥、 スエデンボルグとマリア崇拝は両立しないはずなのに、人間の頭って自分の求めるものを都合よく取捨選択してしまようです‥ポントスさんのような優秀な人であっても‥