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かほ

子育てのしんどさとは~2019友人との会談総括~

2020.01.04 08:54

年末、気のおけない友人と話すことができる機会が多く、有意義な帰郷であった。


やはり、30になった女が集まればついつい結婚や子育ての話になりがちだ。


その中で話し合った「子育てのしんどさ」についての話がやけに心に残り、書き留めて、自分を励ます材料にしたい、と思った次第だ。


まず、子育てのしんどさとは、これまでの人生で自分が経験してきたしんどさとは、全く性質の異なるものである。


「仕事に比べれば楽なもんだ」と考える人がいつまでも一定数いることが、わかる。

なぜなら子育てをしている自分すらも「楽、とは言わないがしんどいとは言い切れない」という微妙な立場に立っていた時期があるからだ。

だが、友人と話し合った結論としては「仕事のしんどさと比べることそのものが子育てのしんどさを増幅させる行為である」と言うことができるだろう。

それについては後で述べるとして、まずは子育てのしんどさとは具体的になんなのか、を整理していきたい。


あくまでも私の個人的な思いではあるが、

子育てのしんどさを端的に言うならば


「変わらざるをえないしんどさ」


「自在感を得られないしんどさ」


「不幸になれないしんどさ」


という3つが挙げられる。



まず、「変わらざるをえないしんどさ」について。

これは、感覚的に多くの人に伝わるのではないかと思うが、特に子育ての初期段階において、身体的に、精神的に、私は自分が自分ではない誰かになってしまったような苦しさを感じることがあった。


考えてみれば、当たり前だ。

妊娠、出産により、女には体型、味覚、夫に求めるもの、金銭感覚、その他諸々、大きな変化が訪れる。日々、日々変化せざるを得ない状況に迫られる。


しょうがないことだが、妊娠後期、体重計に乗るたびに「あれ?私ダンベル持ってる?」と一瞬頭が混乱するほどガンガン体重が増加していく。

下を向くと思い切り出っ張った腹。

足の先すら見えない。


それだけでも、私は私がもう、女ではない何かになってしまったような、なんとも言えない不安に襲われた。


好みや考え方も変わる、夫と話したいことも変わる、あんなに大好きだった音楽もなぜか聴く気にならない。

当たり前にできてたことが何もできない。

何をもって、自分が自分であったのか分からなくなる。

妊娠後期は、常に本を読んで、他人の考えをインプットすることだけに集中していたような気がする。


それに加えて、産後1ヶ月は壮絶な睡眠不足が待っている。(私は多分まだマシな方だったはず)

夜寝ようとすると、娘が泣き、おっぱいをあげながらも眠くて眠くて、やっと娘が寝たと思ってベッドに置くと、また泣き始める、そんなことを繰り返して、最悪の気分で朝を迎える、ということが余裕で一週間続いたりする。


寝不足の時の精神状態というのは、非常に危険なもので、水素ばりに、もういつ爆発してもおかしくない、という状態に陥っている。


そんな時に、少なくとも私よりは夜、深い眠りについていた夫が言う。


「この前、カルディで買ったブラジルのコーヒー、日が経つと酸っぱいなぁ。」


どうでしょう。

夫は、何か悪いことをしたのでしょうか。

いいえ、夫は何も悪くありません。

ただ、ブラジルのコーヒーについて、感想を述べただけなのです。

しかも、私が妊娠する前まで、私は夫とコーヒーやお酒の話をするのが、大好きだったはずなのです。


しかし、極度の寝不足である私にとって、ブラジルのコーヒーについて、優雅に話す夫の姿は、フランス革命前の市民から見たマリーアントワネットのようなもので、まぁ、とにかく腹が立つのだった。


ここで、腹が立つのと同時に泣きたくなるほど悲しくなったのは、変わったのは夫ではなく、私なのだと、自覚していたからだ。


いくら寝不足とはいえ、私はこんな、何も悪いことをしていない夫をマリーアントワネット呼ばわりして(してないけど)、頭の中で悪態をついて、なんて余裕のない人間になっちまったんだ、と落ち込んだ。


でもさぁ、今思えば、変わらないでいられるわけがなかったんだから、初めての育児なんだから、もっと自分の心が弱ってることを、自分自身が受け入れるべきだったなぁと思うよ。眠いよ辛いよって、しくしく泣けばよかったよ。夫は優しいから、そうすればきっと、何か行動をしてくれてたよ。多分。

え、してくれてたよな?(じろり)



次に「自在感を得られないしんどさ」について。


「自在感」というのは「自由」とほぼ同意だと思うのだが、「自由がない」というと、行動を制約されるという狭義な意味に聞こえるため、「自在感」という、大層な言葉を使ってみた。


ここまで、子育てのしんどさばかりを語ってきているが、子どもというのは、恐ろしいほど可愛い。衝撃的に尊い。


これまで自分が得てきた何よりも、優先して守らなければならないと、本能でも理性でも思うのだ。


それでももちろん、子どもと24時間向き合っていると身も心も非常に疲れる。

自分だけの、自分だけが自在に操れる時間が欲しい、と切に思う。


しかしそんな時間を少し作るのも、0歳の時期は一苦労。夫の予定を聞き、時間を決め、友達に会いたいと思えば友達と予定を合わせて、やっと子どもと離れる時間を得ることができる。


しかしだ、いくら予定を完璧に定めたところで、当日の朝、子どもが熱を出そうものなら、全ては白紙に戻る。

学生時代の友人と数年ぶりに会う約束をしていようが、映画のチケットを予約していようが、もちろん白紙である。


私が言いたいのは、それ自体が辛い、ということはもちろんあるのだけど、たとえそこで、夫が「自分がよく見ているから大丈夫」と言ってくれたとしても、子どもが熱を出しているのに、心から解放されて自分の時間を楽しむということは、もう絶対にあり得ない。そこに、幸福なしんどさがある、ということである。


心から熱を出した子どもが心配で、なんの躊躇いもなく予定をキャンセルする。子どもが辛い思いをしているのに、自分だけの時間を楽しむことはできない、したくもない、それほど大きな存在を抱え続けているのだ、ということに、胸が軋む。


自在感が得られないしんどさ、の裏には、自分より優先して大切にしたい子どもへの愛情がある。だから、苦しくも、誇らしいところがある。


唯一、唯一、このしんどさを増幅させる原因があるとするならば、それは間違いなく夫の行動にあるだろう。


私は、私たちは、子どものためにその行動を進んでとっているのであって、何も自分より夫の自由を尊重しようとしているわけではない。それは強く言いたい。


もし妻が熱の子どもの看病をしているにも関わらず、同時刻に飲み会を100%で楽しめる夫がいたとしたならば、猛省を促したい。


というか、猛省を促してるけど、猛省促されてる時点でアウトというか、何故、あなたは、妻が思うように自分より優先して子どもの体調が心配にはならないのか?

どうして苦しんでいる子どもを忘れて外で酒が飲めてしまうのか?

二人の子どもなのに。

私には甚だ疑問である。


おっと、まるで訴えたい対象が定まっているかのような口調になってしまった。

このくらいにしておこう。


最後に「不幸になれないしんどさ」について。

何度も言うが、子どもはどうしようもなく可愛く、尊い。

一日中抱っこをして、自分の腰の感覚が無くなっても、健やかな寝顔を見れば頬が緩む。

今も隣で寝ている娘に思いきり顔を蹴られたが、足大きくなったなーとじんわりする。(蹴られた場所もじんわりする。痛くて。)


この子には、どうしても幸せに暮らしてほしいが、この子が幸せに暮らしていくには、私が幸せでいるということが、かなり重要な要素となるのではないか、と思う。


経済的に、もそうだが、夫婦関係、義理の親との関係など、気負うほどではないにしても、やはり、親が概ね幸福に暮らしていることは、子どもの心の安定に大きく関係するのではないかと思う。


身も蓋もない言い方をすれば、娘に「この親でよかった」と思われたい。


私は娘が生まれてから、精神的に大きく崩れることが無くなったな、と思う。

逆に言えば、思い切り落ち込むことが許されない生活をしているのかもしれないな、と思うことがある。


イライラしているとき、娘が嬉しそうに「見て!」と言う。


娘の方を見ると、保育園で習ったダンスを一生懸命披露している。

私は「すごいね!上手!」と絞り出すように言う。今、笑えているだろうか、と思う。

でも、笑ってあげたい。

娘が頑張って覚えたダンスを私に見せようとした時、私は必ず笑って最後までダンスを見てあげたい。

そういう親になりたい。


なんて思えること自体、幸せだよね。

でも、しんどいよね。

しんどい時もあるのよね。



というわけで、私にとって子育てのしんどさとは、常に自分が幸福であることを娘によって嫌というほど、自覚させられている上で、確かなしんどさとして、存在している。


だからこそ、「しんどいけれど、幸せだ。」と思わせられてしまうところに、弱音を吐きにくい独特の苦しさがあるのではないかと思う。

後はやはり、仕事をしている夫との連携の難しさだ。

最初に話したように仕事のしんどさと、子育てのしんどさを比べることはナンセンスだ。


私は今仕事をしながら子育てをしていて、体力的には、人生で一番苦しい時期かもしれないが、間違いなく、仕事をせず、家事と育児だけをしていた時よりも楽に暮らしている。


「他人と関わらなくていい」

「社会的なプレッシャーがない」

「時間の制約がない」


といった点において、仕事をすることの方が、育児よりも大変だと思ってしまった時期が私自身にもあったが、これらの点は、子育てのしんどさとは、何も関係のない観点である。(むしろ時間の制約がないからこそ、辛いとさえ言える)

だから、仕事の大変さと育児の大変さを同列に語ることは不可能だ。

にも関わらず仕事をする側の一方的な観点で育児を楽と決めつけることは、育児の中でしんどさを感じている人を責め、罪悪感を与える、よりしんどさを増幅させる行為だと考える。


個人的な考えだが、仕事には「他人と関わる必要があり」「社会的なプレッシャーがあり」「時間の制約がある」からこそ、


「ストレスを他人と共有することができ」

「自己の有用感が高められ」

「勤務時間外になると大きな解放感が得られる」


と思っている。仕事をしている方が「私は私」でいられるのだ。



もし、また家事と育児に専念しなければならないタイミングがきたら、私は今度こそ、自分のしんどさを、よく理解してあげようと思う。

夫にもよく話をして、どのようにしんどいのか、どう動いてくれると助かるか、理解してもらいたい。


少しでも多く、子育ての幸福感を享受するために。


しんどい思いをしている友達には、心から共感を示したい。

しんどいと思ってしまう自分を責めないでほしい。