深海 6 (文
蘇る記憶
揺さぶられ揺さぶられ
揺れる揺れる
何故あのタイミングだったのか
今思えばきっとそうだったんだと思う
何年かかっても近づけない距離を
あの人はあっさりと超えていった
いつまで経っても変わらないあたし達と
ほんの一瞬で螺旋のように絡まる二人と
敵わないって思った
どんなに足掻いたって、泣いたって笑ったって
どんなに一緒に時間を過ごしたって
例え会えない時間がどれだけあったとしても
当たり前のように獠の心を攫っていく
あの人には敵わない
「香さん・・」
「香さん・・」
頬に冷たさを感じ、靄がかかったようにぼんやりした頭が覚醒していく。
「あ、あれ?」
「大丈夫ですか?」
心配そうな表情の荒木が、助手席に座る香の顔をじっと見つめている。
この人でもこんな顔するんだなあ・・意外。
なんだろう、この頭の痛み。
ズキズキと不快感を伴い、気持ちが悪い。
「・・気を張っていたんですよ。」
「え?・・」
荒木の言葉に香の顔に戸惑いが浮かぶ。
気持ちのコントロールさえ上手くできないのかと思いが沈んでいく。
「あたしはほんとダメですね。」
情けなさに眉を下げながら笑う香に荒木が視線を移す。
「仕事だけは・・せめて仕事だけはちゃんとしなきゃと思ってるのに・・」
膝の上でキュッと握られた二つの拳が、僅かに震え、左手で右手を強く包み込んだ。
本当はわかってる
あたしなんかがいなくても、獠はちゃんとユキさんを守れるんだって
躊躇いなく腕の中に飛び込んでいけるあの人と
背負っているもの全部ごと受け止めて抱きしめていける獠と
さっきみたいに、そうやって二人の時間を重ねていくんだと思うから
どうすればいいかなんてもうとっくに分かってる。まだ迷うなんて、ほんと未練がましいこんな自分が嫌でたまらない
「あなたはよくやっていますよ。色々なものを抱えながらね。」
俯いた香に、優しい音が降りてくる。
その先を見上げれば、穏やかな瞳が重なった。
瞳の向こう側の窓越しの街並みは、色とりどりに色づき始め、流れていく光が視線を前に移した荒木の横顔を淡く照らし出している。
「表の世界にいたあなたがこちら側で生きていくという事の大変さは、大変という言葉だけでは済まされないほど困難で危険を伴う事だと理解はしています。」
「・・でもあたしは結局は足手纏いなんです。いつも獠に助けられてばかり。あたしが側にいるって事はそれだけ獠が危険に晒されるってことなんだって・・わかっていたのに、それでもって。」
ぽつりぽつりと香が心の内側をさらけ出していく。
「あたし、嬉しかったんです。側にいて欲しいって言ってもらえて。
だけど、きっとそれは家族としての延長線上なんです。時間を重ねて、たくさん一緒にいて家族って認めてもらえたんだと思います。」
そう、きっとそうなんだ。
こうやって言葉にすると、当たり前のように納得ができていく。
「あたしと獠は初めから、今まで、そしてこれから先もずっとそんな関係なんだと思います。手のかかる妹・・?みたいな。愛する・・って色々な形があるんだと思います。あたし、結局は最後まで獠に女として見てもらえなかったけど、それがあたしと獠なんだと思います。」
分岐点に沿うように緩やかに車は流れていく。
運転席の男は特になにを話すでもないが、その無言の空間が心地いいと思った。
何故だかこの人の前では、肩の力がふっと抜けていく気がした。
「・・冴羽が守ってきたとしても、それだけでは生きてはいけない世界です。香さん、あなたは自分の選んだ選択の為にベストを尽くそうとしてきたはずです。なにも恥じたり後悔する必要はないですよ。」
どうして言葉というものは、時にこんなに優しく包み込んでくれるんだろう。
優しさはささくれだった心に
カチカチに虚勢を張っていた身体に
温かい光を注いでいく
「あなたはあなたのままで、そのままでいいんですよ、香さん。」
「・・・・うっ・・」
「?香・・さん?」
ぽろぽろぽろぽろ、何かが剥がれ落ちるように 涙が頬を伝っていく。
「あ、あれ?私はそんなつもりではなかったんですが・・まいったなあ・・こういう事に慣れていないので言葉の選択が悪かったなら謝ります。」
両手はハンドルを握りながら、焦り顔の荒木が香の方をちらちらと何度か見ながら、動揺を隠さず伝える。
その横で涙腺が崩壊した香はグスッ、グスッと嗚咽を漏らしながら片手で顔を拭い、ヒックヒックとしゃっくりまで飛び出している始末だ。
「あ、えーと・・香さん?」
「ふぁ、ふぁい。ち、違います。荒木・・さんのせい・・じゃ、あ、あたし、ほんとは獠の大切な人にな、なりたかったんです。だ、だけど、そん・・なの・・ヒック。じ、時間なんて関係ない、そ、そんな・・のじゃ・・なくて、す、好きになる、うー・・好きになるって、出会って・・すぐだって、そ、そ、そんな、ふぇっ・・特別な・・ことだって。ずずずっ。」
最後は鼻を啜る音まで聞こえて、まるで子供のようだ。瞳は涙でぐしゃぐしゃでこんな顔間違ってもこれから先の警護場所まで引きずっていけない。
落ち着け、落ち着けとふう・・・と大きく息を吐く。
この人の前だと、獠にも見せられない弱い部分が何故こんなに溢れてくるのだろう。
「あなたが・・そう思っているだけかも。」
「へ?・・ずずずっ。」
「・・いえ。どうぞ、使ってください。」
差し出されたハンカチをブンブンと両手を振り断るが、くすり。と笑みを浮かべながら
「必要ないなら捨ててもらっても構いませんから。」
と香の手に綺麗に折り畳まれたハンカチを握らせる。触れた荒木の掌の温かさが、降り止まない香の心の雨に、傘となり守り包み込んでいくように思えた。
左右に流れていく街の光が徐々に明るさや数を増し、高くそびえるビルの合間を一定の速度を保ちながら、荒木が車を走らせる。
「少し、止まります。」
「へ?な、なにかありましたか?」
フイに頬に触れたその手に、心臓がひとつとくん。と跳ねる。
荒木の親指が香のまぶたの下を撫で、目を細め呟く。
「私だけでいいです。あなたのこんな顔を見るのは。」く
壊れ物に触れるようなその仕草と言葉に、困ったように香が眉を下げ笑う。
「あなたがそういう覚悟なら。どんなサポートでもしますよ。あそこの角で車を停めるので、顔を洗ってきてください。このまま待ち合わせ場所に行っては、あなたがまた自身を責めることになってしまう。私はここで待っていますから。」
「荒木さん・・・ごめんなさい、あたし仕事中なのに迷惑ばかりかけてしまって・・」
「迷惑なんて思っていませんよ。あなたはもっと誰かに頼っていいんです。」
小さく首を振りながら、香がまた笑う。
「ありがとう・・ございます。」
そう言いながら、ドアロックを開けて駆け出し、広場の角にある洗い場へと急ぐ。
「なにやってんのよ。」
ぐしゃぐしゃな顔と心に冷水をパシャリと掛け、頬を軽く打つ。
優しさに甘えていたくはない。甘えちゃいけない。
最後までは、獠のパートナーとしての立ち位置だけは守っていたいと思う。
『おれ達二人でシティーハンターだろ』
「あの言葉は・・あたしの支えだったんだよ、獠。」
だけどそれはあたしの問題で、獠にはなんでもないことだったのかもしれない。
「だけど・・あたしにはそれしかないから。」
よし。と頷き、両手を上に大きく伸ばし、背伸びをしながら肺に空気をめいいっぱい送り込む。
寒空の下の空気の循環はその冷たさゆえに、肺が全身に覚醒の伝達を伝えているようにさえ感じる。
ピリっと指先まで伝わる程よい緊張感が心地がいい。
相変わらずの頭痛は少し残るが、随分と頭がクリアになってきたような気がして、ほっと安堵のため息を落とした。
「行かなきゃ。」
今はまだあたしは獠のパートナーだ。
その気持ちだけは強く持っていたいと願う。
間違えないように、ちゃんとしっかり。
全部が終わったら会いに行きたい人がいるから。
確かめるように首元をなぞりながら、そっと取り出すと両手で握りながら、香は前を向いた。
夕刻から開かれた、プリンセス・ユキ・グレースを招いての宮中晩餐会は、皇族関係者、閣僚、政治・経済界の要人、文化人などが招かれ、華やかに執り行われていた。
ユキの流暢な日本語は親しみを感じさせ、和やかな雰囲気を作りだしていく。
洗練された料理に趣がある会場。
最大限にあつらえられたおもてなしの精神は
二つの国のこれからの繋がりを示唆しているようで、ユキの顔にも安堵の表情が見て取れる。
まさかまたこんな風に誰かを守る事になるなんて思わなかったと、荒木の中にかつての庇護対象者への想いがよぎる。
うちなる秘めた想いは未だ熱い。
『お元気そうでなによりです』
幼い頃から培われてきた絶対的な価値観は今もまだなお荒木の中に生き続けている。
それは生涯変わることはないだろう。
荒木にとって、プリンセス・ユキ・グレースははあくまで仕事上の守るべき対象の一人に過ぎない。
そこに一切の感情は存在せず、必要、不必要のふるいわけで必要だからこそ守る。ただそれだけの事だ。
槇村香もそうだったはずだ。
守るべき対象の一人に過ぎず、どちらかといえば、優先順位がユキよりは上だというだけで、特段変わることはない。
はずだった。
どうして槇村香という人物がこれほどまでに
気になるのかーー
「まいったな・・・」
泣かれるとどうしていいかわからない。
嫌だという否定の感情ではなく、どう慰めていいかわからないという戸惑いの感情に、荒木自身が戸惑いを覚えていた。
平静を装っていたが、内心は冴羽とユキの事で思い悩む彼女の涙に、庇護欲と独占欲が湧き上がってきたのも自身の感情なのだ。
「・・私だけに見せればいい、なんてあんな事・・」
見せたくないと思った。
彼女が自身の前だけで泣けるのなら、それを守りたいと思った。
配置されている部屋の片隅にある窓の外に広がる綺麗に手入れの行き届いた庭園を眺めながら、これからの自身の与えられた依頼内容に対する行動について思案する。
最優先すべきは槇村香だ。
ユキを守るのも冴羽のサポートも任務の一環だが、最優先を優先しながら、が自身の役目なはずだ。
迷うな、ためらうな、確実に。
例え彼女の顔から笑顔が消えるようなことがあったとしても・・
あの男にとって、槇村香という存在を失くすほど果てない絶望はないはずだ。
「これでいいんだ。いいんだ・・」
言い聞かせるように呟きながら、こんな風に思い悩む事が自分らしくないと、軽く首を振った。
晩餐会を終え、ホテルに帰り着いた時には午後11時を廻り、軽い疲労の色がユキの表情に浮かんでいる。
ロビーを抜け、滞在している部屋へと運ぶエレベーターの前でユキが思い立ったように顔を上げ、獠に問いかけた。
「冴羽さん、私・・・」
潤むその瞳は答えを求めている。言葉にはならない想いが獠の心に儚げに届く。
「おつかれさん。あの後もしばらく話してたんだろ?迷うな。君は間違っていない。それでいいんだ。」
「冴羽さん、私の選択で国が変わってしまうのかもしれないと思うと・・怖いんです・・」
シンイチや香や荒木など数名しか周りにいないとはいえ、ユキの瞳には獠しか映っていないかのように、切々とただ一点を見つめ訴え掛けていく。
「どこまでの譲歩かはわからないが、変わらないままでいられるほど国同士の駆け引きは甘くはないさ。もっと周りを頼るんだ。君の周りには君を想い国のためにと動き、共に歩んでいける人材が側にいるはずだ。」
ユキの隣に立つシンイチがぴくりと小さく揺れる。
諭すように獠がユキを見つめる。
どうして・・そんな・・・
先刻の香に向けていた視線とはまるで違う。
優しさは変わらないのかもしれない。
含む色が違う。
どうしてーーどうしてーー
「私は!私は・・あなたが!」
届かない想いをぶつけるように、獠のスーツの上着を握りながら、香に視線を移す。
香さんーー香さんーー
私は・・・
香とユキの視線が重なる。
ユキの叫ぶような想いが香の心を貫いていく
ユキの瞳が全てを物語っている。
こんなにも全てを持ち得ている人が
なりふり構わず獠を求めている
あの日あの時、できなかった選択を
今突きつけられている気がした
これ以上あたしはここにいちゃいけない
「獠。」
声が震えないように保つのが精一杯だ。
大丈夫。変わらない。
心の中全部を隠して、香が笑う。
「美女のXYZは断っちゃダメなんでしょ?」
「香・・・」
漆黒の色が揺れる。
「あたしは行くから。とにかくユキさんの話をちゃんと聞いてあげてね。」
無意識に首下を探り右手で包み込む。
大丈夫。
立ち去ろうとする香に荒木が寄り添う。
「荒木さん?」
「私の任務は最優先はあなたを守る事です。
あなたが行くなら私も行きますよ。」
「そんな・・」
ためらう香の頭にそっと手を乗せ、ポンポンとまるであやすように軽く打つと、癖のある髪が柔らかに揺れた。
これからは共に
荒木は今はっきりと自身の願いを自覚する
揺れる髪を視線に捉え、獠の瞳に苛立ちが滲む。上着を握り唇を噛むユキをそっと制しながら、離れていく二つの気配に
「香!おまえは・・槇村は、本当にそれを望んでいるのか!?」
耳に届いた低い声に、思わず香が目を見開く。
勢いよく振り返ると、首下の鎖も同時に跳ねた。
「なあ、香・・槇村は何て答えた?教えてくれよ。」
鎖の先の形見の品を獠が凝視しながら自嘲気味に獠の唇が弧を描く。
「何・・言って・・るの?アニキはもういないんだよ?獠!」
何かが違う。いつだって悔しいくらい心を乱さない獠が、不安定に揺れている。
アニキはいないのに。
どこにもいないのに。
あたしの心の中にいるアニキのように
獠の中にもアニキがいるのかもしれない
だけどね、獠。
答えてはくれないの。ただ居てくれるだけなんだよ、ただそこに。
ごめんね、あたしがいるから獠がアニキとの約束に縛られて踏み出せないんだ
「ごめんなさい・・」
「どうしておまえが謝るんだ。」
「・・・・・」
「香、おれは・・おまえがーー」
怒号が響くーー
同時に幾つかの塊がエレベーター近くの非常階段から、バン!!!という扉が乱暴に開かれた音と共に飛び込んでくる。香にも届くほどひりつくような殺気と共に。
「死ねえええぇぇ!!!ユキ・グレース!!!」
銃口が複数一斉にユキに向けられる。それを庇うように香の体が瞬時に跳ね、飛び込んだ。
「ユキさん!!!」
「香!!」
同じように飛び込んできたもう一つの気配が香を抱え弾道から庇うように更に強くかき抱く。
逸れた弾道は香の肩口を掠め、切り裂くような痛みと焼けるような熱さに意識が飛びそうになりながら、
「ユキさん、逃げて!」
とありったけの力で叫んだ。
獠、獠!守ってーー
一瞬の判断の遅れだった
香に気を取られ、放たれた残された二発の弾丸は真っ直ぐにユキに向かっている。
間に合わないーー
瞬時の判断の修正で獠が、ユキの前に飛び込む。躊躇いはない。
「冴羽さん!!」
ユキの悲鳴が耳元に響くが構わず、包み込むように抱き、少しでも。と体制を低く落としながら、コルトパイソンが火を噴く。
「うぐっ!!」
「ぎゃあ!!!」
肉を裂く音と共に男二人が呻きながら、グシャリと倒れ込む。
左脇腹に鈍い痛みが走り、眉根をわずかに寄せた。
「冴羽さん!!」
脇腹から血が滲む。その赤い鮮血にユキの体が一瞬硬直し、震える手で触れようとするが強い力で制止を受けた。
「て、手当てを・・」
「こんなのはかすり傷だ。なんてことはないさ。君はここに隠れているんだ。」
エレベーター前のホール横の通路の柱にユキを誘導し、伝える。
硝煙の香りが辺りに色濃く満ち、立ち込める煙にユキの視界が霞み、立ち上がる男の纏う空気に近寄り難ささえ感じ、一瞬怯むが、ぐいと腕を取り引き寄せその背に顔を寄せる。
「ダメです。なんてことはないなんて言わないで。もっと自分を大切にして。あなたが傷つくと私はひどく苦しいです。」
「ユキ・・・」
ユキの想いは真っ直ぐであの頃と何も変わっていないと、獠の胸に苦い切なさが募る。
少しの沈黙の後、振り切るように再度ユキをそっと離すと、
「ここにいるんだ。」
と強くはないが有無をも言わせない強い意志
にユキの全身にいいようのない悲しみが走る。
「冴羽さん・・」
「香が銃弾を受けている。とにかく様子を確認してくる。」
そう告げるとホールの方へ飛び出していった。
「香・・さん?」
自分を守るために怪我をした香への申し訳なさと、それと同時に先程までの香とのやり取りで獠にとっての香の存在を嫌というほど感じさせられた中での獠の今の言葉に、香に対する激しい程の羨望が生まれ、それは鉛のように重く重く果てない。
「ユキ!!」
ザッという足音と共に影が駆け寄る。
「シンイチ!?」
「よかった・・冴羽さんが一緒だから大丈夫だとは思っていましたが、生きた心地がしませんでしたよ。」
「私は・・あの人が守ってくれたから・・
シンイチは大丈夫?」
困ったようにシンイチがユキを見つめる。
「私は残党を相手にしただけですから、あなたを抱えながら冴羽さんが主犯格の二人を一瞬で倒してくれました。もう一人いましたが、荒木さんが始末をしてくれています。後は警察に差し出すだけです。」
「シンイチ・・香さんが、怪我を・・」
シンイチの手に支えられながら、ユキがそろりと立ち上がる。幾分か顔の色を失い、立っているのもやっとの様子のユキに、シンイチが言葉を掛ける。
「あなたのせいじゃない。大丈夫ですよ。意識ははっきりしていましたし、出血もほとんどない様子でした。」
「そう・・・よかった・・」
安堵した様子のユキにシンイチの瞳が柔らかに細められる。
「冴羽さんも・・私を庇って怪我をしたの。
ねえ、シンイチ、私間違ってるのかしら・・
国を守りたい気持ちが結局は摩擦を生んで、
こんな形で誰かを傷つけている。
綺麗事じゃないってわかってる。
だけど国の為に誰かが犠牲になるなら私は立ち止まってしまうかもしれない。」
「立ち止まりそうになったら休めばいい。時には後ろに戻る事になったとしても、また進んでいけばいいんです。私が一緒にあなたの決断を背負いますから。」
「シンイチ・・・」
幼い頃から気づけばいつも側にいた存在だった。
ユキを見つめる瞳は少年だったあの頃の面影を残し、深い安堵感さえ覚える。
共に歩んでいける人がいるはずだ
あの人はそう言った。
それがきっと答えなんだろう。
それでも・・・
「あの日のように・・あのほんの僅かだけど共に過ごした時間のように・・」
誰に聞かせるでもなく、ユキが言葉を紡いでいく。
「もう一度あの人の気持ちが欲しい。ただの男と女に戻ってやり直せるなら、私は・・私は・・」
あなたは共に行きたいと願っていたと信じたい
抱きしめられたあの時、私とあなたの想いは重なっていたと信じていたい
だからいつまでたっても私は幼子のようにあなたを求めてしまう
無言のままシンイチがユキに寄り添う。
向けられる瞳はどこまでも深く穏やかだ。
「ごめん・・なさい。駄目ね、私。こんな弱音、漏らすなんて・・ましてや、こんな我儘な願いを持ってるなんて、女王失格よね。」
行き場のない想いを抱くように、右手で左肩を強く掴み、キュッと瞳を閉じる。
「・・あなた以外に誰が務まるというんですか。弱音も願いも人間だから当たり前です。
あなたは精一杯やっています。今のままでいいんですよ。」
「シン・・イチ・・」
零れ落ちる涙を掬うように、頬に触れたシンイチの掌があたたかいと思った。
「私・・私、香さんに・・」
彼女はわかっていた。
私の想いを願いを
だから全てを捨てて去ろうとしてくれていた
私はそれを望んだの、望んだのシンイチ
「自分を責めるのはやめて下さい。それぞれがそれぞれの想いがあります。あなたは自分の願いを吐露しただけ。それだけです。責められることではありません。」
そう言いながら、次の瞬間シンイチの瞳が伏せられ、わずかだが動揺が伝わってきた。
「ただ・・・」
「ただ?なに?どうしたの!?シンイチ!!」
漠然とした不安が胸を覆い、ユキが縋るようにシンイチに答えを求める。
ユキの早鐘を打つ鼓動を感じ、苦し気な表情を浮かべシンイチが口を開く。
「香さんが・・消えました。」
嫌な予感がしていた。
ユキとのやり取りの最中、馴染んだ気配が消えていた。
香を掠めた弾道は確認できていたから、傷の程度は分かっているつもりだが、まさか、という焦りが獠の中で膨らんでいく。
転がる三体の塊は内二人は呻き声をあげまだかろうじて意識を保っている。
沸る気持ちを抑えながら、冷めた瞳で獠が見下ろす。感情のない色が降りてくる。
残る力で虚勢を張り目の前の人物を睨み付けていた男たちの顔が恐怖で醜く歪んでいく。
理屈では無い。感覚で理解する。
圧倒的な殺気の前に寒気さえ感じ、体の震えが止まらなくなる。
ヒトという認識すら無いのではないか。
逃げ出したくても足も手も思うように動かせない。
呼吸の仕方すら忘れそうだ。
瞬間、男が跳ねる。
背に、頬に激しい痛みの衝撃が走り、
躊躇いなく振り下ろされた獠の右足が更に容赦なく男の背中を抉り、断末魔にも似た叫びが壁や天井に反響しながら響き渡っていく。
色の無い瞳で、獠が口角を上げ、
「おまえたちの背後には誰がいる?それとも
こんな無計画さは寄せ集めの集団だからか?」
発した抑揚のない声が恐怖を加速させていく。
「こ、殺さないで・・くれ!!」
ぐいと男の髪を掴み上を向かせると、
「おまえの願いなんか聞いてねーんだよ。おれの質問に答えろ。」
「う・・くっ・・・」
ピリピリと体の内側にまで届いてくる内なる苛立ちをぶつける。
「や、雇い主はいないっ!!国が変わり、失脚した、おれ達や国に残っている仲間が、女王を殺して再び返り咲こうとーー」
グシャッ!
「ぐああああっっっ!!!」
掴んだ後頭部を床に加減なく叩きつけられた男の悲鳴が耳をつんざく。その不快感に獠の眉がぴくりと上がる。
「今後一切、女王に手を出すな。覚えておくんだな、二度目はない。」
動かなくなった男を見下ろしながら、反対側の壁に張り付くように倒れ込み、先程パイソンで貫かれた痛みと衝撃で薄れゆく意識の中、朦朧としているもう一人の男に視線を移すと、
「致命傷じゃあないさ。警察が早く・・着けば、な。」
そう言い放つ。
視界の端に入る三人目の男はもう既に息も絶え絶えで、撃ち抜かれている左足は失血の為、もう感覚がないのだろう。
・・・アイツ
獠の瞳に感情の波が戻ってくる。
この男を撃ったのは荒木だろう。
耳に入った銃声は一発だった。
ユキの前に飛び出した香を瞬時の判断で庇い、正確にこの男に致命傷に近い傷を与え、尚且つすぐに楽にはさせないやり方で沈めている、荒木という男の力量を改めて思い知る。
「一線を退いてもこれ・・・か。」
ヤタガラスという組織の底知れぬ強大さを垣間見た気がした。
獠の記憶が線を手繰り寄せるように
一つの記憶を蘇らせる。
・・そうだ。おれは聞いたことがあったんだ。
「ヤタガラスには手を出すな。あれは別物だ。おまえさんでも敵うか・・どうかじゃ。」
「ヤタガラス?」
「ああ。日本の守り神じゃよ。決して触れてはならんものじゃ。まあ、おまえさんとは闘いの土俵が違いすぎるから交わることはないじゃろうがな。」
数ヶ月前にアメリカから渡ってきたばかりで、いくあてもなく転がり込んできた獠を受け入れ、この国で生きていくならば学んでおけと、まだ不自由な日本語の練習も兼ねて、別室に保管されている書物の数々を自由に使えと伝えた。
数々の書物を読み漁る内に、何度か目にするそのキーワードが頭に残り、何の気無しに尋ねたのがきっかけだった。
「闘いの土俵?なんですか、それ?」
さして興味もなさそうに獠が問う。
外にでも出ようかと誘われ、言われるがままに庭に降り立ち、桜の花が咲き誇る下をゆっくりと歩きながら教授が目を細める。
「のう、ベビーフェイス。こんな綺麗な桜の下をこんな風におまえと歩けるなんて、長生きもするもんじゃな。」
「・・その呼び方いい加減なんとかなりませんか?・・別に桜だろうがなんだろうが花なんて特別なんの感情も沸きませんけど。」
憮然とした表情の獠が面倒臭そうに大きなあくびをする。
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ。まだまだじゃな、ベビーフェイス。・・いつかわかるとよいな。大事な誰かと穏やかな時間を過ごすありがたさを、幸せを。まあ、今の好き勝手してるおまえさんにはわからんだろうがな。」
楽しそうに肩を揺らし、再度ゆっくりと歩き出す。
「・・なんですか、それ?そんなのおれには必要ないですから。・・で、土俵ってなんですか?ヤタガラスなんて胡散臭すぎて眉唾ものですが。」
「ほう・・この数ヶ月で随分日本語が上達したもんじゃな。おまえさんにはいつも驚かさせられる。・・そうだな・・」
教授の纏う空気が変化する。獠の視線が鋭く細められた。
「そんなに警戒するほどのことではないぞ。
まったく・・尖っているのも結構だが、ここでまでそれを出す必要はないじゃろ?・・まあよい、聞け。」
「・・はい・・」
誰にも頼ることなく一人で生きていた男の悲しみや孤独を知る老人は、バツが悪そうに小さくなる男の姿が、幼き日の過酷な状況の中で膝を丸めて俯いていたあの少年の頃となにも変わらないのではないかと重なり、息を小さく吐く。
「ヤタガラスという組織は確かに存在する。
これは日本の成り立ちから続く、政治やまつりごとの裏の裏で、代を変え人を変え、途切れることなく繋がれてきたこの国の根幹なのじゃよ。全てを含めてな。表で見えるものだけが全てではない。何千年も消えることなく、時には風前の灯火の中、神風吹き荒れ、守られてきた事柄じゃ。国の象徴たるものを守るために、この国には様々なからくりが成されておる。ワシやおまえさんには到底立ち入ることのできない領域も存在している。
その一端の一つがヤタガラスだ。
在るべきはずの戸籍さえもたない、守るためだけの彼らは幼き頃からエキスパートになるべく育てられていると聞く。
おまえさんとは接点がない話だろうが、覚えておくといい。決して同じ土俵に上がるでない。この日本という国はどうにも不可思議でな。それに下手に手を出せば、飲み込まれてしまうぞ。」
淡々と話を紡ぐ教授の言葉に嘘はないと思った。そもそも騙す必要などないのだから。
だが、自身が生きてきた世界とはまるで違う世界があるのは頭では理解できていても、不可思議などというものには一番縁遠い、ただ目の前に在る現実が全てだった獠にとって、どこか浮世離れした話に思えてくる。
「・・要はどちらが強いか弱いか、上か下か。それだけです。おれはそんな世界しか知らない。」
哀しい男だと思う。
きっとどこか大切な部分は壊れてしまっている。自ら闇へ闇へと生き急ぐ節が見えて、ワシは胸が痛むんじゃよ。
だからこそ、この男を救う存在が在って欲しいと心から願う。
どんなに道化を装っても、その闇は深く深い。
桜の花が風に舞い散り、はらはらとスローモーションのように落ちていく。
「・・おまえさんが知る世界はな。それだけが全てではない。おまえさんもこの国に住むようになったんじゃ。直に分かっていく事もあるだろう。ヤタガラスだけではなく、この国は常識では測れないことが本当に溢れておる。三輪もしかり、石鎚もしかり、数え上げればキリがないが、伊勢や出雲だけではなく日本の至る所に神話から続く不可思議が眠っておる。ヤタガラスという組織はのう、必要とあらば政治や経済の世界まで入り込んでいる連中じゃ。生半可な相手ではない。おまえさんがいくら強くても一人で太刀打ちできる相手ではない。
とにかく関わらん事じゃな。おまえさんの今の頭では到底理解できないじゃろうがな。」
忘れ去られていた記憶が、今の状況と符号していく。
先程の場所を離れ、階下まで通じる階段を駆け下りるように駆け抜けながら、香の気配を探ったが、どんなに感覚を研ぎ澄ませてもどこにも確認できない。
どこだ、どこに行った!?
あの状況から、なお神隠しのように香を連れ去った荒木の鮮やかな手口に、為す術もなくこうして走り回るしかない事に激しい焦燥感を覚え、右も左も上も下ももうどうでもよくなってくる。
立ち止まり、力無く俯き立ち尽くす。
もう遅い。
すでに手が届く場所には香は居ない。
無理矢理連れ去られたのではない。
消えゆく気配はぷつりと遮断されるように消えたわけではなく、徐々に少しづつ消えた。
香が自らの意思で去っていった。
あの男の背後にいる人物が、香を無理矢理連れ去るわけはないはずだ。
「嘘だろ・・・」
思い出せ、思い出せ。
シグナルはどこに隠れていた?
離れようとする香の心は伝わってきたが、
それでもまだ、と何処かで香がおれの側を離れるわけがないと思っていた。そんなわけがないと。
いくらおれが突き離しても、離れようとはしなかったおまえが、こんなにも簡単にその手を離すのか?
まだ何も伝えていない
伝えていないんだ
足が鉛のように重い。何処へ行けばいい
お前が望む道はおれは歩めない
「勝手に決着・・つけんな・・よ。」
近づいてくるサイレンの音に、呟いた想いは空に消え、届くことはなかった。
・・・香
・・・香
ダメ。
ここだけは開けられない。
来ないで。見ないで。
こんな想いは沈めたままでいいから
「まいったな、開けてくれないかな?この天の岩戸を、頼むよ、パートナーさん。」
ああ、どこかで聞いたことがある。
そう、あれは・・
『ようやく天の岩戸を開けてくれましたか、
美しい天照様。』
巡る記憶。
重なり揺られる。
あの時とは違うあたしを呼ぶこの声は・・・
「・・香さん」
「・・香さん」
身体全体に伝わる小さな振動と、右肩に感じる痛みに意識がゆっくりと浮上してくる。
痛みは残っているが、血は止まっていると開いた右目で確認できた。ネクタイだろうか、的確な止血の手当てが成されていて、何もかもを一人で行ってくれたのであろう男の横顔を見つめる。
「気がつきましたか。傷の痛みは?」
「大丈夫です。痛みはほとんどないです。荒木さんの手当てのおかげです。・・ありがとう・・ございます。あたし、結局、荒木さんに助けてもらってばかりです・・」
「私は私の役割を果たしただけです。あなたが望む選択を。あなたを守ることが私の一番の役目ですから。」
「荒木さん・・あなたにあたしの事をお願いしたのって誰なんですか?」
一番に浮かんだのは、姉のように慕う女性といつも気にかけていてくれる、優しい男のふたりだが、何故だか違う気がした。
どうして自分にこんなにまで寄り添ってくれるのか知りたいと思った。
「それは、今から行けばわかりますよ。待っていますから、その方が。ただ・・・」
「ただ?」
荒木が言いかけた言葉に香が問いかける。
「よかったんですか?・・これで」
荒木が笑う。笑っているのに眉は下がり、どうして辛そうな顔をするんだろう。
「あたしが・・荒木さんにお願いしたんです。あたしなのに。・・ごめんなさい・・」
獠がユキさんを庇った後、ユキさんを連れて姿が見えなくなくなったあの時
朦朧としていた意識を必死に保ちながら
縋る思いで荒木の手を取っていた
連れて行って下さい
あたしはここにいちゃいけないから
荒木に抱きしめるように強く引き寄せられた後、記憶はゆっくりと途切れて行った
「あなたが望むなら、何処まででも。」
引き寄せ、抱えるように去りながら、意思の無くなったはずの瞳から涙が溢れ出ていた。
意識を手放す前の彼女の言葉と、意識を手放した後に見せた彼女の弱さや未練や後悔と、どちらが本当に望むものなのか、荒木は判断がつかなかった。
それだけ彼女は揺れている。
彼に対して決して見せようとしない弱さごと、連れ去ってしまいたいと思った。
『光なんじゃよ、あの娘は。あやつにとってやっと見つけた光なんじゃ。』
はじめて触れた光は温かった。
それが欲しいといつの間にか願うようになった。
彼と彼女の絆は誰が見ても特別だと分かる。
だが・・と荒木は思う。
寄り添い、側にさえ居ることができたなら、
いつかは気持ちの変化があるのかもしれないと。
彼女が望むなら。
それを言い訳にしている自分に気付いてしまっている。
「香さん。」
「・・はい?」
斜め下から見上げてくる彼女のこんな顔も好きだと思う。
「あんな無茶は二度としないで下さい。」
香が驚き目を見開くと、無言のまま俯く。
「責めてるんじゃないです。私は・・」
今は言えないその言葉を飲み込み、指定された場所へと車を走らせる。
窓の外に広がる無数のビルの灯りが遠ざかっていくのが、胸に安堵感を与えていく。
アクセルを踏み込み先を急ぐ。
隣に座る柔らかな存在は触れられる距離にいる。
今はそれで充分だ。
荒木の想いなど気付かぬように、香がシートに深くもたれ、目蓋を伏せる。
まるで全てを預けるように。
その仕草に高まるものを抑えるように視線を外し、ぐっとハンドルを強く握り直した。
揺られ揺られたどり着く先はどこなのか
荒木にも分からなかった。
今はこの流れに流れていたいと、分岐点の表示を視界の端で確認しながら、ハンドルを左に切った。
2020.1.5