体系と構造。その3
体系と構造を使い分けられないことで、大の大人が時間と労力をかけて真面目に仕事をしているのにも関わらず、誰も望まないような事業がおこなわれたり利用する人のいない箱物が作られたりする・・
このような問題に対して、首をすげ替えた変えただけでは状況が変わらないのは、実はそれを生み出している社会の仕組みが、表面的には体系のように作られているように見せかけて、実はその根本に構造的な仕組みを取り入れているからです。
矛盾しているようですが、体系は構造の廉価版です。
複雑極まりない構造から、しがらみや伝統を廃して、分かりやすく誰でも容易く運用できるようにしたのが体系です。しかし、当然ながら本当の体系的な組織では、作ったその人がやがて追われるのは自明の理です。だって、老害となった人は不要なブロックなので新しいものに帰る方が効率的だからです。
しかし、政治も会社も自治体もそうはなっていません。なぜなら、彼れらは自分の所属するコミュニティーを体系的にコントロールしながら、自身は簡単にはすげ替えられない構造的に安定した関係を作ることに躍起になっているからです。矛盾してますよね。
江戸時代の悪代官と庄屋の関係にも見て取れるように、体系的なもののにかにも構造的な安定を求めるのが人間です。それほどに構造というものは強いものです。
つまりは、構造を正さないと体系だけを入れ替えても意味がないと言うことです。
その難しさは、森林が伐採され更地になってもそこが森があった痕跡を消すことはできないことに似ています。何にもなくなってしまっても神社や川の流れや碑石としてサインが残り続けます。それこそ数百年前の人々の営みを鮮明に残すのはいつの時代も構造的な意味を備えたものです。
どれだけ破壊されても、仮に眼には見えなくなってもその場に残り続けるよう構造を、人々は「文化」や「郷土」や「習慣」と呼びます。
つまり、体系的な社会の問題を正すためには、文化や郷土や習慣といったものを作り育む、そんな気の遠くなるような時間を要すると言うことになります。体系は容易に作れますが、構造は作るのではなく、産み、育むものなのです。
どれだけ荒廃しても記憶の中に刻まれ蘇ってくるのが構造的な物事の特徴だとすると、ブロックで作られたような体系的な世界は、どれだけ密集していても、どれだけ時間が経っても独自の景観とはなり難いです。それは、どこまでいってもどこかにあるような景観であり、森林が間引きをすることで強度を保つのと違い、劣化してやがて総入れ替えをしなくてはいけなくなります。
現代はその総入れ替えの時期なのでしょう。
ブロックは、どれだけ密集していても、それぞれが均等な姿をした独立した存在です。
それはある意味でフェアなことだけれども、いざ自分のこととして考えてみると、それではなんとも頼りない。無個性でいられるのは、群れることで安心を得られる場合にのみ適応される。そして、群れなければ安心できない。
そんなコンクリート製の壁の強さ、孤立した孤独を、個性や強さだと考えてきたのが、高度経済成長以降の日本だ。
大きな会社の重役なのに家にも帰れず家族とも過ごせない。家族との繋がりはお金だろうが、それだけで人は心から安心することは出来ないだろう。潜在的にそのような不安や不満があるから、そのような話は漫画やドラマに散見される。
つまりは、一部の突き抜けた人を除いて、今日の状況に対して不満や不安があるということだろう。
個人の孤独について考えると、戦前の日本は森林的な考え方だった。遠くから見たら大きな一塊りに見える森が、近づけば様々な動植物が群れてひとつに見えているものだと理解していた。コンクリート製の壁と違い、森林では個々がバラバラであることが許される。同じ木であってもそれぞれが杉や松やブナや楓であることは許されていた。
だからこそ、皆バラバラであっても森林という単位では一丸となっている実感を感じられたし足りない部分を補い合う形でバランスが取れていた。
全体に害をなす者、バランスを損なうものは間引きされることで環境に合わせたバランスを取ることが出来た。
しかし、現代社会は個々が均一的な個性をもつことで、入れ替え可能になることで、成長してきた。コンクリートに求められるのは、役割りを全うすることだけなので、時に応じて求められるサラリーマンや非正規雇用とういう型にはまって、その役割を演じ、経済発展にくみすることが人間の幸福の最上級であるように教え込まれた。
前回も書いたように、体系も構造も、全体のバランスをとる為のものですが、体系は個々が一定の原理に従うことでまとまった全体を作ります。一定の原理がなければ不安になるのは当然のことです。
これが、かつての村社会規模の組織であれば、自分の苦労や我慢が礎となって、村の発展を助けた。というひとつの物語によって心病むことなく穏やかでいられたかもしれないです。各地に残る石碑や地名、様々な不思議な風習の多くに、そのような全体の為に損な役割を演じことになった人々への慰めがこめられいる。
しかし、現代は全て自己責任だという風潮だ。一体どこまでが自己でどこからが公共なのか、それが非常に曖昧なのにも関わらず、個々の責任を問うことに躊躇がない。
おかしな話だと思う。働き方が自由化されたのではなく、単にこれまでの働き方が壊れているにすぎない、我々は新しい時代をサバイブしているように語られることが多いが、実態は戦後数十年の幻が消えて無くなり、これまでおざなりにしてきた問題と向き合っているに過ぎない。
その4に続く