「オペラ『フィガロの結婚』の誕生」14 ウィーン③
ボーマルシェが『フィガロの結婚』を完成させたのは1778年のこと。1781年9月には、興行成績が上がらず、局面打開を狙っていたコメディ・フランセーズの上演作品決定委員会は満場一致で『フィガロの結婚』受理を決めた。自信をつけたボーマルシェは検閲申請を行う。判定は非常に好意的で、全体にみなぎる陽気さは決して露骨に過ぎることはなく、作品には何の危険もないとして、上演にゴーサインがあたえられた。ルイ16世は、自分で判断を下すために作品を取り寄せ王妃付き筆頭女官カンパン夫人に朗読を命じる。
「わたしが読み始めると、国王はたびたび賞讃や非難の声を上げられて朗読を中断なさった。・・・フィガロの独白の部分で、彼は行政の様々な分野を攻撃しているが、とりわけ国内の牢獄をやっつける台詞のところでもって、国王は激しい勢いで立ち上がられ、こう言われた。『これは唾棄すべきものだ。絶対に上演は許さん。・・・この男は政府の中のあらゆる尊敬すべきものを愚弄している。』『では上演致しませんの?』王妃がおたずねになった。『そう、絶対に。確信してよろしい。』と国王は答えられたのだ。」
こうして作品の上演、出版は禁止された。しかしボーマルシェは、作品の舞台をフランスからスペインに移すなどの手を加え、印象を和らげる努力を行う。その上で、国王への抵抗を開始する。
「宮廷から粛清されたことがかえって街中の好奇心をあおる結果となり、わたしは数限りない朗読を強いられる羽目になった。」(ボーマルシェ)
ボーマルシェは、この朗読を強力な武器とする。しかし二度目の検閲申請でも上演禁止は解除されない。1780年代のフランス社会は、一方ではアメリカの独立戦争に触発された民衆のエネルギーが蓄積されつつあり、他方では啓蒙思想が貴族社会にまで浸透していたから、貴族たちの中には『フィガロの結婚』の主人公の痛快な才気と、権威をものともせぬその陽気な不屈さを愛して、作品上演の後押しをするものが多かった。しかし、三度目の検閲申請でも結果は同じ。結局上演許可までに6人による検閲という前代未聞の手続きが必要だった。こうして『フィガロの結婚』は1784年4月27日、パリのコメディ・フランセーズで歴史的な初演を迎える。上演は大成功し、コメディ・フランセーズの財政事情も好転した。
パリにおける人気はウィーンにも伝わったが、上演はできない。エマヌエル・シカネーダーが上演を計画したが、皇帝ヨーゼフ2世によって禁止されてしまったからだ。しかしそれだけに『フィガロの結婚』はこの上ない話題作であった。オペラ化して、もし上演できれば、評判になるのは間違いない。モーツァルトはダ・ポンテに話を持ちかけ、皇帝と交渉。ダ・ポンテは、穏当な内容のオペラに脚色するということで皇帝を巧みに説得し、上演を取り付けることに成功する。こうした経緯があるから、ダ・ポンテの台本は原作の芝居が持っていた相当過激な政治的メッセージをカットしている。しかしモーツァルトは、言葉の上でカットされたメッセージを彼の音楽によってあり余るくらい補い、雄弁に表現した。召使フィガロの主人アルマヴィーヴァ伯爵への怒りは、モーツァルトのコロレド大司教に対する怒りそのものなのだ。
モーツァルト自身の体験が色濃く反映されているのは、主従関係についてだけではない。 恋についてもだ。例えば第1幕第5景のケルビーノ(伯爵付きの小姓)のアリア。
「僕はもう分からない、自分が何か、何してるのか、今、火のようで、今、氷のようで
どんなご婦人方も僕の顔色を変わらせ どんなご婦人方も僕をドキドキさせる。
恋やら楽しみやらという言葉だけで 僕は胸が騒ぎ、揺れ
そして僕に恋の話をさせてしまう、自分で説明できない何か憧れが。
ぼくは目覚めながら恋を語り 夢見ながら恋を語る、水に、影に、山々に、花に、草に、泉に、
こだまに、大気に、風に、でも風は虚しい言葉の響きを 運び去ってしまう。
そして誰も聞いてくれる人がいないと 僕は自分に恋を語ってしまう。」
ウィーンに出てきたモーツァルトは、1年越しの愛が実を結んで、1782年8月4日、聖シュテファン寺院で結婚式を挙げていた。
『フィガロの結婚』左が小姓ケルビーノ 右はアルマヴィーヴァ伯爵
ヨーゼフ・ヒッケル「皇帝ヨーゼフ2世」ウィーン美術史美術館