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神社が好き!

神社学的☆深淵なる日本のシャーマニズム

2020.01.06 06:36

令和弐年、いよいよ明けましたね。数少ないであろうw こちらの貴重な読者の皆様におかれましては、本年も健やかにご多幸のもと日々の暮らしが全うできますことを祈念しつつ、今年初号のブログをしたためます。


今年はいよいよ東京オリンピック開催ですね。個人的には、僕は東京への招致反対でしたし、今でもあまり前向きにはとらえておりません。その理由を書き出すとキリがないので、どうでもよい僕のアンチ・東京オリンピックの想いにご興味ある方はどうぞ個別にメッセージくださいね(笑)


さて、、、オリンピックといえば、今でも思い出すのは今や小泉進次郎の奥様である旧滝川さんが招致スピーチにおいて表現した「おもてなし」の言葉。彼女はその際、「東京で現金をなくしてもかなりの確率で警察に届けられ、お金が戻ってくる」と、この東京の特性を表現し、その心の在り方をもってして「おもてなし」の精神をこの国の魅力と説いたわけだが、その数年前の東日本大震災から毎年のようにやってくる巨大台風や超大雨などの天災となったそれぞれ被災地においても、被災後、電気が消えた商店でも強奪は起こらず、支援物資の受け取りなども辛抱強く列を作る日本人の姿は印象的だった。当時、それをみた海外の人々はみな、「自分の国ではありえない!」と驚いたというのも有名な話。


日本人の道徳心や、正しさと思いやりを大切にする意識は、どこから生まれたのだろう? 

たくさんの理由が考えられるが、そのひとつに神社や信仰があると僕は思っている。


祈り捧げる場所である神社だが、今や人手不足に頭を悩ましており、神主さんがいる神社では、おそらく周辺の神主さん不在の神社を兼務社として10~20社ほど受け持っているのが現状ではないだろうか。


神仏習合というそれまでの日本人の心の在り方を、ある意味でぶった切ってしまった明治以降の神仏分離令は、自然という神様と一緒に暮らしていく考え方であった随神道(かんながらのみち:江戸末期までの神道的信仰)を、「神道」という一つの宗教にむりやりはめ込み、一神教的な国家的宗教を生み出してしまった。その後、ひとつの宗教となった神道の施設である神社は、近代、それまでこの国が経験したことのないほどの発展と戦い、物質的な豊かさを求める価値の社会的変革を経て今に至る。江戸末期までの神仏をともに和合する神仏習合の信仰心においては、日本の神様を拝し守る僧侶もいたことを考えれば、今とは比べ物にならないほど神社や寺とかかわる人は多く、そうして祈り、守られていたはずだ。その代表が天皇陛下そのものだと僕は考えている。


天皇陛下の仕事のひとつは毎日欠かさず1年365日、すべての日本国民と世界のために祈ること。国の象徴である人が、365日毎日祈る。全国くまなく神社仏閣があり、少し前までは、今よりも多くの神主や僧侶がその地を守り、全国各地でやはり365日、誰かのために、何かのために祈っていたのだ。200年ほど前まで、この国はそんな呪術的な・・・目に見えない祈りの力を有したシャーマニックな国であった。今の日本に生きる僕たちは、そんな足下にあるこの国の、本当の特性を忘れてしまっている。


古来からの風習や暮らしを重んじる沖縄の御嶽(ウタキ)やノロやユタの存在や伝統性、または幸せの国と呼ばれる国ブータンや、セドナやチベット、バリやインドといったスピリチャリティあふれる地へあこがれる人も多いがしかし、たった200年前までの日本の暮らしはまさにスピリチャリティで構成されていて、そのころすでに存在していた神様はこの国をすてどこかに行ってしまった、、、なんてことはなく、自然崇拝における究極は「命あるものすべてに神宿る」精神であり、僕の命にも神様は宿ってくれているのだ。現代人の多くは、そこを忘れてしまっているだけ。みんながそれを思い出せば、おのずと日本の神様は各地に存在し、僕らを見守ってくれるに違いない。

僕らの住まうこの国が、とてもシャーマニックで、祈りと想いで守られてきた国だと思い出すだけで、僕は「日本人でよかったな」と心から思う。先人との対話を可能にしてくれた神社や聖地と呼ばれる地は、国中に張り巡らされた祈りのネットワークにほかならない。


令和弐年。もっともっと日本の神様と仲良く生きていこう。その先にある、日本人ならではの思考と感覚こそが他者への思いやりであり、本当の意味での「おもてなし」なのだから。


本年も、”神社が好き” と ”神社学” をどうぞよろしくお願いします。

みんなでよい年にしましょうね! 

弥栄ましませ

kentekist