当山中興八世大和尚
昨日9日は当山八世中興未参碓禅大和尚、今日10日は十四世で私にとっては曽祖父に当たる碩庵碓豊大和尚、それぞれのご命日でした。特に八世碓禅大和尚の今年150回忌に当たり、後日、先住忌法要をお勤めする予定です。
今年150回忌になるということは、没年は明治4(1871)年。日本国においても仏教界においても、大きな節目の時期でした。
明治元年の大政奉還に合わせて発令された神仏分離令をきっかけに、全国で巻き起こった廃仏毀釈運動。当地ではそこまで大きな動きにはならなかったと伝えられています(山岳修験に限っては著しく衰退したようです)が、同じ圏域でも海を挟んだ対岸の隠岐では、「隠岐騒動」に端を発した廃仏毀釈は苛烈を極め、江戸時代に100ヶ寺ほどを数えた仏教寺院が、一時全滅したと伝えられています。
そんな法難の動乱期に晩年を過ごした碓禅大和尚に、当山中興が追贈されています。
伝承によると、正史としての当山開創は寛永18(1641)年、松江洞光寺八世衮室勧補大和尚の勧請開山によります。
しかしその後に寺基が安定せず、一時は建物が人手に渡っていたようです。それを買い戻したのが碓禅大和尚。以降は着実に代を重ねてきました。一般的には江戸時代が寺院の安定期と言われていますが、むしろ当山においては明治維新の前後から安定したのです。
実は近頃、廃仏毀釈に関する取材や研究が注目される兆しがあります。その先鞭となった鵜飼秀徳さんの著書『仏教抹殺』の中で、お寺を取り巻く状況が大きく変わる節目、「寺が消える」可能性という点において、当時と共通点がある現代は、「第二の廃仏毀釈」の兆しありとの指摘がなされています。また昨年に、宗務所の現職研修会の講師を務めて頂いた民俗学者の畑中章宏氏も、講義の翌日には、廃仏毀釈に関する現地調査のため、隠岐に向かわれました。私自身もこの5年ほど、公務で隠岐を訪れる機会が多く、「隠岐騒動」に大きな関心を寄せていました。
そんな中で、幕末明治に寺基を安定させるという特異な浄行を果たした、中興未参碓禅大和尚の先住忌を迎える僥倖を感じています。(副住職 記)