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#偉人伝 - #アントニオ猪木 #イラク人質解放

2020.01.11 10:32

1990年12月 猪木氏、イラク在留邦人人質解放  まとめ

「Favorite Cafe」さんより掲載

1990年11月30日、当時参議院議員だったアントニオ猪木はイラク・バグダッドに入りました。前日の11月29日には、国連安全保障理事会が9月にクェートに侵攻したイラクに対して、武力行使を決議。このときすでにイラクのサダム・フセイン大統領は、国連のイラクへの武力行使の圧力に対抗して在留外国人を国外出国禁止の措置をとっていました。これは事実上の人質、「人間の盾」です。

人質となった在留外国人の中には数多くの日本人も含まれていました。しかし日本の外務省による人質解放交渉は遅々として進まず、11月には中曽根康弘元総理がイラクへ特使として派遣され、74名の邦人帰還が実現したものの、この段階で233名の日本人がイラク国内に残されたままでした。

 そこで立ち上がったのが、我らがアントニオ猪木。猪木は日本にいる被害者家族とともにイラクを訪問し、人質を全員解放するための直接交渉に立ち上がったのです。外務省は猪木と人質被害者家族のイラク行きを止めましたが、猪木はこれを拒否して強行。猪木氏が外務省の制止を拒否したのは今回だけでは無く、9月、10月にも2度のイラク訪問を行っていました。猪木は自ら提唱したバグダッドでの“平和の祭典”を開催することで、バグダッドから世界に“平和のメッセージ”を発信し、イラク政府との対話の道筋を付けることで戦争を回避し、人質を解放することを目指していました。

10月の訪問では、20日にウダイ・スポーツ大臣(フセイン大統領の息子)との会談、22日にラマダン第一副首相との会談を実現、イラク政府へイベントの開催と人質解放を精力的に働きかけていました。バグダッド滞在中は、日本人として初めてバグダッド・カルバラのモスクへ足を踏み入れ、イスラム教の洗礼を受けて入信、イスラム名「モハメド・フセイン」を授かり、また毎朝街中でのジョギングも欠かさないなど、イスラム文化を理解する姿勢を見せることでイラク政府に受け入れられるための努力を続けました。最終的にはフセイン大統領との直接会談を目指していましたが、残念ながらそれは実現しませんでした。

そして、11月30日に46人の日本人家族とともに再度バグダッド入り。この時の大きな目的は、12月2日と3日にバグダッド市内で“スポーツと平和の祭典”を開催すること。猪木の趣旨に賛同した各国のスポーツ選手やミュージシャンたちも参加し、初日は「アル・シャープ・スタジアム」でサッカー、「ナショナルシアター」でロックコンサートと日本の大太鼓を初めとする伝統芸能や空手トーナメントを開催しました。そしてイベント2日目は「サダム・アリーナ」においてプロレス大会が開催されました。この大会には猪木も出場して“平和”を望む市民の声を世界に発信しようと目論んでいましたが、持病の痛風が発症、自身の出場はかないませんでした。それでもイベントは大成功し、イラク在留の邦人人質と家族の面談も実現しました。

 12月5日に猪木と同行家族は、世界平和友好協会会長サルマン氏(フセイン大統領の側近)と会談、その席でフセイン大統領宛に書簡を託すことが出来たものの、邦人人質解放には至らず、焦りと落胆の中、帰国の途につくことになりました。

ところがフライト直前にアントニオ猪木に「フセイン大統領から、お話がある」との連絡が入り、急遽帰国を延期してバグダッドに残ることに。そしてウダイ・スポーツ大臣(フセイン大統領の息子)から日本人人質の解放が伝えられました。そして「戦争をしたくなかったので、長い間ゲストとしてイラク国内にとどまっていただきました。申し訳ありませんでした」と謝罪の言葉も添えられていました。

 さらにその夜、フセイン大統領が「在留外国人全員の出国を許可する」と発表。各国の人質も全員を解放することが発表されたので、「猪木氏が日本人人質を解放させた」というインパクトは若干弱まりましたが、逆に言えば猪木氏の努力が日本人人質だけでなく世界各国のすべての人質解放を後押ししたとも言えます。このような急転直下の展開で、最終的に猪木議員はイラク在留邦人を伴って帰国するという偉業を達成しました。常識に縛られた政治家には出来ない「闘魂外交」です。

 アントニオ猪木とイラクから帰国した日本人が成田空港に降り立ったのは、12月9日。空港では帰国した日本人家族がアントニオ猪木を中心に歓喜の“ダーッ!”を繰り返し、解放の喜びをマスコミにアピールしました。そして12月12日にはイラクに残留していた日本人全員の帰国が完了しました。

この時は「猪木ファン」であることを最高に誇らしく思いました。