「宇田川源流 日本万歳!」 「中国人には理解できない」と報道された日本の風習と国民性から見る日本人のすばらしさ
「宇田川源流 日本万歳!」 「中国人には理解できない」と報道された日本の風習と国民性から見る日本人のすばらしさ
そろそろ正月気分も抜けて、新年会なども本日くらいで一段落するのではなかろうか。
本日1月13日は「第二月曜日」ということで祝日である。ちなみに令和二年初めの祝日は、「元旦」であって、成人の日は初めの祝日ではない。
もともとは1月15日に固定されていたが、なんだか「ハッピーマンデー」とか連休を増やすということで第二月曜日とされてしまったので、残念ながらそのような日本の風習は見えてこない。
もともと1月15日は「小正月」といわれる。古くはこの1月15日までが「松の内」として休むようになっていたのであるが、江戸時代に経済が活性化するに至り、あまりにも休みが長すぎるということで、1月7日までと半分にされてしまったのである。それまでは正月は15日までで、それまではあまり働かないし、また田舎に帰ってよいということになっていたのである。
この日の朝には小豆粥を食べる習慣があり、早朝に食べることから「あかつき粥」、小豆の色合いから「紅調(うんじょう)粥」「さくら粥」とも呼ばれている。このことは土佐日記や枕草子にも記載がある。年神や祖霊を迎える行事の多い大正月に対し、小正月は豊作祈願などの農業に関連した行事や家庭的な行事が中心となる。本来は人日まで竈を休ませるはずの松の内に、忙しく働いた主婦をねぎらう意味で、女正月という地方もある。場所によっては男性が女性の代わりに料理などの家事を行う日とされる。
さてなぜこの日が「成人の日」なのかといえば、昔は数え年で、正月に皆年を取るようになっていた。しかし、休みのうちつまり「松の内」はどちらでもよいというような感じになっており、そのために、松が明けるときに元服の式を行っていたのである。
これは、小正月が農業の神事が多いことでもわかるように、農民の一般家庭でも広くそのようにされており、その日を成人の日として祝日にしたのである。
つまり農業国日本としてまたは年齢を年で重ねる数え年の風習から、広く成人の日が1月15日であったということになるのである。
さて、このようなことで、「日本万歳」はその日のあり方など日本の文化や国民性を言い、日本のすばらしさを伝えてゆくようにしたい。そして、今年も日本人としての誇りをもって我々が生きてゆくようにしたいと思う。
何もほかの国に合わせたり、あるは他の国と一緒のことをしなければならないということはない。それどころか、他の国が日本の風習を真似すべきと思うことは少なくない。経済の発展から技術など「小手先の真似」ばかりしている国は存在するがそのような国は、全く発展しない。にわか仕込みなどがうまくゆくはずはない。
それは国家間であっても同じことで、精神性というか魂というか、ある程度道を究めた人しかわからない境地がある。国家としてまたは国民性として、日本は自信をもって日本の文化と伝統を究めれば良いのであり、何も他の文化と優劣をつける必要などはないのである。
文化と政治や制度は違う。そのことをよく考えてみたい。
日本って不思議だなぁ 「首を傾げたくなる」ような奇妙な習慣=中国メディア
中国人から見ると、日本には「首を傾げたくなる」ような奇妙な習慣があるのだという。中国メディアの今日頭条は14日、中国人の目に映る「日本の奇妙な習慣」について紹介する記事を掲載した。
まず記事は、日本の奇妙な習慣として「立ち読み」を挙げ、日本ではコンビニや書店で立ち読みする人の姿が見られても、店員が長居する客に「立ち去るように言わない」のは不思議だと主張。むしろ立ち読みする人がいることで店が繁盛して見えることを利用して歓迎する節もあると説明した。
また日本では旅行や出張に出かけた場合は友人や同僚に「お土産」を買う習慣があるとし、これも中国人からすれば奇妙だと指摘。「旅行=土産」という暗黙のルールがあるかのようだとし、「日本人が旅先で買う土産には一種の義務感が含まれ、観光地では本格的な工芸品以外にも、それほど親しくない人に贈るための菓子など様々なものが販売されている」と紹介した。
他にも「日本人が会話で何気なく打つ相槌も種類が多く、しかも頻繁に使う」と指摘。「はい」、「ええ」、「うん」、「そうですか」、「なるほど」など、日本人は相手の話を真剣に聞いていることを相槌を使って示すと伝え、「日本で長く過ごした中国人は知らないうちにこの習慣が身に付いてしまうほど」と吐露した。
またビジネスシーンにおいては上下関係を重視する細かな習慣があるとし、「飲み会での座席の位置」、「お詫びの仕方」、「名刺交換」など、中国では全く気に留めることのない細かなところにまで上司や取引先との関係を良くするためのマナーが存在すると説明し、これも中国人からすれば「奇妙」であると強調した。
日本には古代中国から大きな影響を受けた習慣や文化が数多く残っているが、日常生活における様々な習慣においては日本と中国では差も大きく、日本で暮らす中国人は日常の様々なシーンで戸惑いを感じているようだ。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)
2020年01月03日 22時12分 サーチナ
https://news.nifty.com/article/world/china/12190-20200103_00033/
さて今回は、中国が日本の文化に関して「理解できない」などということを言っているような話である。
記事の内容を大まかに言うと、次のようになる
「立ち読み」~立ち読みをすることで繁盛しているように見せかけている
「お土産」~一種の義務感であり、親しくない人にまでも買って帰る
「相槌」~真剣に聞いているふり
「飲み会での座席の位置」、「お詫びの仕方」、「名刺交換」
さて、まあ立ち読みは別にして、それ以外の内容は、この記事によれば「中国から影響を受けた習慣や風習や文化が多い」という。まあ、そのことに間違いはないのであるが、残念ながら中国は共産主義がはびこり文化大革命で歴史をすべて捨ててしまった国民性であり、そのことによってモラルなどが全くなくなっている。
そのように「モラル」というか「共同体として当然の気づかいや思いやり」がなくなってしまった国民には日本は非常におかしく思うのかもしれない。
しかし、それは国の事情や政治体制が異なることであり、我々からすれば中国の文化などは、おかしいとか奇妙というよりは、はっきり言って辟易として疲れ切ってしまうとしか思わないところもあるし、また汚いとしか思わない者も少なくない。
私が大連にいたころ星海海岸という海水浴場があったが、そこに大きく「西瓜を食べることを禁止する」と書いてある。中国人はモラルがないので、西瓜を食べると種をその場で吐き捨てるのであるが、砂浜だからすぐに育ってしまうのである。その処理が面倒なので、西瓜自体を禁止するという。まあ、何とも言えない内容になっている。
我々からすれば「自分のごみを捨てる」「ごみはごみ箱に捨てる」ということができない中国人の文化性には笑いしかないが、昨今中国人観光客の襲来によって観光地がおかしくなっているのはこのような中国人の国民性・文化性とそれを経済のためと割り切って受け入れる観光地のモラルの低下によるものではないか。
逆に言えば、そのようなモラルがしっかりとあれば「立ち読み」をしても、本当に必要な本は買うしまた、あまり付き合いがなくてもお土産を配れば、その後何か新たな関係が生まれる。共同体というのはそのようなところで「親しいから」ではなく「親しくなくとも助け合う」ということが非常に重要である。
そのような文化性を持ち、また親しくない人に対する寛容性を持ち合わせていることこそ、日本人の特色でありなおかつ、日本人が何かを開発したり何か困難に立ち向かうときに、多くの人の協力を得ることができるということになる。
当然に、日本が行ったところには、様々な協力隊衛があり文化が根付きそして産業が発展するが、他の国の植民地制度は搾取しかしないというようなことは少なくないのである。
つまり日本の文化というのは、「共同体としての思いやりを基本とする」ということと、また、「共同体としてスムーズに事を運ぶ方法」として存在するものであり、そのことをもって共同体がしっかりと維持ができる。
個人の権利が少し少なくなるかもしれないが、そのことによって共同体としての力が大きく発揮され全体が発展するのである。その全体の発展を喜ぶ風潮があり、一人が良ければよいということが強く戒められたのである。そのことが風習や文化として残っているのではないか。
そのような文化的背景がわからずに「奇妙」としてしまうことが、中国人のマスコミなどの考察の浅いところであり、また中国がいつまでたってもモラルがうまくゆかないところである。日本人のすばらしさ、そして単純に明治維新以降または戦後日本が発展を遂げた背景にはそのような国民性があるのだ。
そのことを日本人は「奇妙」などという言葉に惑わされることなく、しっかり誇りを持っていればよいのではないか。
ああ、日本人の国民性を有していて本当に良かった。