告白
2020年1月12日
伊藤大輔牧師
使徒言行録26章1-11節
私たちは聖書をどのように読んでいるのか。
創立記念日のこの日、そのことを確かめたい。
パウロは法廷において弁明を始める。
裁判。
そこは対立する意見の正当性を競う場ではない。
訴えたもの・原告が被告の罪を証明するのが裁判。
被告側はその証明が成立しないことさえ行えれば、推定無罪で釈放になる。
パウロを訴えたユダヤ人たち原告。
彼らはパウロの罪を証明する必要があった。
だが、その証明はおらか原告の言葉すら一致に欠けていた。
パウロはもはや裁判の場にいる必要はなかった。
にもかかわらずパウロはその場に留まり弁明を始める。
なぜか。自分の正当性よりも語りたいものがあった。
人々の注目の集まる場だからこそ語らなければならないものがあった。
パウロが語りたいこと。
人とはなんなのか。
人は本来、どういう者なのか。
誰にでもあてはまるもの。
パウロはそれを語る。
聖書の言葉。
特定の宗教の言葉ではない。
人の本来について聖書は語る。
人の本来とは何か。
パウロの弁明はそれを明らかにする。
パウロは訴えれた原因は「神の約束に希望を持っていたからだ」と言う。
また「悔い改め」を勧めたことも原因としている。
同じ神を信じるもの。
それがどうして原告と被告に別れるのか。
なぜ「悔い改め」に怒りを覚えるのか。
悔い改めたくないから。
悔い改めを人生に持ち込みたくない。
自分は正しい。
自分への変更を恐れている。
ユダヤ人たちは神を信じ、律法を守りそれで良いと思っていた。
そうすれば救われると思っていた。
かつてのパウロがそうだった。
しかしパウロはそれではダメだと悟った。
神にすがる。
執着がある。
固執がある。
それは信じるではない。
なぜそれが信仰ではないのか。
パウロは「神の約束の実現」を信じていると語る。
神は今も働いている。
神はいる。そ
れが事実なら私が神にすがりつく必要などない。
神は私からしがみつかれることなど望んでいない。
しがみつかなくても神は私を離さない。
神の約束。
世界の初めから変わらない約束。
「良し」とする。
全てが整い、
全てがある。
その世界を神は造ると約束し今も造り続けている。
足りない、
これではダメだと思うは人の思い。
パウロは勧める。
「ダメだ」とするその人の思いを悔い改めろと。
神が今も働いていることを思い出せ。
パウロが法廷に留まり語ったこと。
聖書が私たちに変わらず語りかけること。
創立記念のこの日に思い出したい。