江戸の名所「深川」⑩時代小説と深川(2)藤沢周平2
深川の岡場所にはピンからキリまであった。「仲町」が最高級のピン。
「一ノ鳥居を潜ると、富ヶ岡八幡宮の門前まで、路は夥しい灯の色に彩られていた。商い店にまじって、小料理屋、料理茶屋、水茶屋が軒を並べ、それぞれ軒行燈を掲げて、その奥から三味線や唄声、酔った高声や笑い声が洩れてくる。」(『霧の果て』第1話「針の光」)
妓楼が全く書かれていないがどういうことか?実は、深川の岡場所には吉原とは異なる特色があった。客が女郎屋に登楼し、そこで女郎と同衾する普通の仕組みである「伏玉(ふせだま)」以外に、「呼出し」という制度があった。客はいったん料理屋にあがり、女郎屋から女郎を呼び寄せる仕組みである。「深川七場所」のうち、「仲町」、「土橋」、「櫓下」はすべて「呼出し」だった。この「呼出し」だと、料理屋が事実上の女郎屋となる。深川の料理屋が大いに繁盛した背景には、この「呼出し」制があった。「仲町」には、尾花屋、梅本、山本という有名な料理屋があり、江戸の上流階級や良家の子女がこぞって訪れて料理を楽しんだが、それはあくまで表座敷のこと。奥座敷では、客の男と女郎が昼間から性行為に励んでいた。次の描写も、このあたりの事情を知って読むと味わいも深まる。
「三人は小路の左側、仲町と黒江町の境目にいた。眼の前に、お滝と染めぬいたのれんが軒行燈に照らされているが、店はひっそりした感じだった。ほかにも同じ並びに二、三軒の小料理屋が軒行燈を出しているが、表通りから外れたこのあたりは人通りもほとんどない。どこかで三味線を爪弾きしている音が、夜のしじまの中に聞こえるだけである。
だがひっそりした夜気の中に、男と女の気配がした。このあたりは、小料理屋は表向きで、ほとんど女郎屋に等しい商売をしていることを玄次郎は知っている。」(『霧の果て』第1話「針の光」)
深川岡場所のキリは「三角屋敷」や「網打場」にあった切見世(きりみせ)。切見世は細い路地の両側に長屋が建ち並び、部屋の広さは二畳に、小さな板敷きと土間があるだけ。女はこんな狭い部屋に住み、客を取った。ちょんの間(約10分)で、揚代は100文前後だったそうだ。こんな川柳がある。どんな情景か?
「ちかい内来(き)なといゝいゝ小便し」
切見世の狭い路地にはみぞが掘られ、上にどぶ板が敷かれていた。客との行為が終わったあと、女郎は洗浄を兼ねて必ず放尿するが、路地奥にある共同便所まで行くのは面倒だった。なかには、路地のどぶ板を外してまたがり、みぞで用を足す女もいた。この川柳は、みぞにまたがって放尿しながら、「近いうちに、また来なよ」と、客を見送っているところ。恥ずかしくないかって?切見世の女郎ともなると、人前で尻をまくって放尿するなど平気だったようだ。
深川の岡場所と吉原では、ほかにも大きな相違点があった。吉原では客が女を外に連れ出すことは厳しく禁じられていたが、深川では許された。だから深川の岡場所では、客は洲崎の初日の出や亀戸の梅見、あるいは隅田川の雪見、両国の納涼などに妓を連れ出すことができた。また、深川には「送り舟」、「迎い舟」というならわしがあって、ちかくの船宿になじみの客が来ているという知らせを受けると、妓や芸者は茶屋から舟で迎えに行ったという。たとえ茶屋から監視の男衆が一緒に行くにしても、深川の岡場所には、妓をきびしく囲い込んだ吉原とは異なる遊興観、経営の方向があったようだ。
いずれにせよ、門前仲町を中心とする一帯に散らばる繁華な花街は壮観だったろう。
「暗い大川を横切って深川の掘割に舟を乗り入れる遊客は、やがて前方に夜気に映える遊所の灯明かりを見て、胸をおどらせたかも知れない。・・・岡場所の明かりもさることながら、掘割を往復する舟の明かりも、華やかな一風景だったろう。帰る客を送る「送り舟」には、芸者・太鼓持ちが同乗し、送りましょかえ、送られましょか、せめてあの家の岸までもと唱ったものだそうだ。
もちろん舟の客だけでなく籠の客もあったろうし、あるいは近い町の船宿まで来て、そこから歩いて深川の遊所に入る客もいただろう。そういう客にとっては、夜空にそびえる一の鳥居と、その鳥居の向こう側にひろがって灯火をつらねる町の明るみは、やはり心を動かされる夜景だったに違いない。」(藤沢周平『私の「深川絵図」』)
歌麿「深川の雪」
画面上部右の前屈みの女性が担いでいる大きな袋は、遊女として呼ばれた芸者のために、客と過ごす閨の寝具を抱主の置屋から料亭に運ばれた「通い夜具」。深川の「呼出し」をあらわしており、ここは門前仲町あたりの大きな料理屋の2階であろう。
国貞「辰巳十二時ノ内 未ノ刻」
深川の岡場所