萩の寺・東光院へ拝登
編集のお手伝いをしている曹洞宗参禅道場の会の機関紙『参禅の道』の取材で、大阪府豊中市にある東光院様に拝登させて頂きました。
このお寺の歴史は古く、開創は天平7(735)年に、行基菩薩が日本初の民間火葬を修した場所に建てられた薬師堂を淵源とし、大阪では「南の四天王寺、北の東光院」と称えられた格式のある古刹です。詳しくは同院のホームページをご参照下さい。
このお寺のご住職は、曹洞宗審事院長の村山廣甫老師。
審事院とは曹洞宗における言わば裁判所で、教団内での争議を審議して調停する機関。要は曹洞宗の三権の長のお一人です。
↑ お写真を撮り忘れたので、老師のFacebookページのトップページを拝借しました。
そして副住職の博雅師は、現在、世界仏教徒青年連盟(the World Fellowship of Buddhist Youth : WFBY)の会長という世界的な要職にあります。日本人がWFBYの会長に就くのは、博雅師が初めてなのだそうです。
その博雅師も、お写真を撮り忘れたのですが、よく見ると、先程の記事のトップで使用した山門写真の、
山門の中で無造作に映りこんでいた、
この方が、
博雅師。
実は私の修行時代の同参でした。「同期のサクラ」ってやつです。
師資ともにまあとんでもなくハイクラスな御仁で、本来であれば私なんぞ歯牙にもかけて頂けないのでしょうが、たまたま同参ということで拝謁の栄に浴すことができました。
でも今回の拝登の目的は、このハイクラスなお二方に取り入るため、ではなくて、山門に入ってすぐにある「東照閣仏舎利殿」と、それに関わる歴住さんについてお伺いするためでした。
東照閣仏舎利殿、通称「あごなし地蔵堂」。
境内にあるいくつかの堂宇の中でも、このお堂は特異な存在と言えます。元々は地蔵堂として、隠岐島で小野篁が彫像した日本最古級のお地蔵様「あごなし地蔵」を祀っていましたが、実はこのお堂が、江戸時代に天満川崎(現在の造幣局西側)にあった「川崎東照宮」(日光東照宮の分社)を、明治期の廃仏毀釈の際に廃社になった社殿の本地堂を移転したもので、その本地仏の薬師如来像も合わせて祀られているというのです。
そして前述した、元々は隠岐島にあった「あごなし地蔵」が流出したのも明治時代初期、つまり当時隠岐島を席巻した「隠岐騒動」とそれにまつわる廃仏毀釈運動の難を逃れ、東光院さまに遷座されたものでした。つまりこのお堂は、明治期の廃仏毀釈運動を知る上では欠かせない象徴なのです。
そしてこの、あごなし地蔵と川崎東照宮のご遷座に大きく関わったのが、東光院の歴住だった大雄義寧大和尚。この方を『参禅の道』で取り上げようと思ったのです。
これは隠岐島町都万目にある「あごなし地蔵堂」。昨年に曹洞宗宗務所で視察に行った際の画像です。隠岐島では、現在でも篤い信仰を集めています。
同じ由縁のあごなし地蔵が大阪と隠岐の二つにある。一種の歴史ミステリーのようにも感じますが、これ実は、明治の廃仏毀釈が産み出した悲劇と、それを克服しようとした僧侶たちの奮闘が、物語の底流にあります。その中心人物が、大雄義寧大和尚でした。
廣甫老師も取材の時に「日本仏教には法難が3回ある。明治維新と戦後と、そして現在だ」と仰っておられましたが、私も全く同感。現代に生きる私たちにとっても、大雄義寧大和尚の足跡を辿ることはアクチュアルな意義があると思っています。
これから、大急ぎで『参禅の道』の記事をまとめたいと思いますが、それに留まらず、今後も個人的に、この時期の仏教界の動向について参学を深めたいと思っています。(副住職 記)