江戸の名所「深川」⑪時代小説と深川(3)池波正太郎1
平賀源内は『里のをだまき評』(安永3年【1774年】)の中で「吉原へ行き、岡場所へ行くのも皆夫々の因縁づく、能いも有り、悪いもあり。江戸前うなぎと旅うなぎ程旨味も違わず」といっている。吉原の遊女と岡場所の遊女との違いは、江戸前鰻と旅鰻ほどの違いがない、つまり江戸前鰻は旅鰻よりはるかにうまいということが前提になっている。ところで「江戸前鰻」とか「旅鰻」とはどんな鰻のことか?全国の方言辞典『物類称呼』(安永4年【1775年】)にはこうある。
「江戸にては浅草川・深川辺の産を江戸前とよびて賞す。他所より出すを旅うなぎと云」
つまり江戸では浅草川(隅田川の吾妻橋から下流の別称)や深川で捕れるうなぎを江戸前と称してもてはやし、江戸前でないうなぎは旅うなぎと言っている。当然、江戸前鰻と旅うなぎでは値段に大きな差があった。江戸前鰻が蒲焼一皿200文に対して、辻売りの旅うなぎは12~16文だったという。旅うなぎは川柳にこんな風に詠まれている。
「辻売りのうなぎはみんな江戸後ろ」(旅うなぎは「江戸前」に対して「江戸後ろ」)
「丑の日に籠でのり込む旅うなぎ」(土用丑の日には味の落ちる旅うなぎでも売れる)
「旅うなぎ」、「辻売り鰻」というと『剣客商売二』第4話「悪い主」に出てくる「辻売り鰻の又六」のことが浮かぶ。秋山小兵衛・大二郎父子が深川の洲崎弁天社の鳥居をぬけて、北門を出たところにある槌屋という茶店へ入る場面である。
「槌屋はわら屋根の風雅な店で、ここは葭簀(よしず)張りの店とはちがい、一年中、営業をしている。
江島橋をへだてた向うは、深川の木場で、縦横にながれる堀川にかこまれた材木問屋と材木置き場が、みわたすかぎりにつらなっている。
辻売り鰻の又六は、橋の向うの袂に店を出していた。
葭簀の屋根もない、むき出しの台の上で、懸命に鰻を焼いている又六の姿が、茶店の腰かけにいる秋山父子からもよく見える。
客は、木場の人足たちや、近くの裏町に住む、その日暮らしの労働者で、又六は、彼らを相手に鰻を売り、冷酒を売っているのだ。」
この小説は田沼意次の時代(田沼が側用人職に昇格したのが明和4年【1767年】、失脚したのが天明6年【1786年】)が背景だが、当時の鰻事情についても、この前の箇所で池波はこう書いている。
「辻売りの鰻屋というのは、道端へ畳二畳ほどの木の縁台を出し、その上で鰻を焼いて売る。
このごろは、江戸市中の諸方に、辻売りでない店構えの鰻屋もちらほらとあらわれたようだが、
「ありゃ、ひどいものさ」
などと、ものごとにこだわらぬ秋山小兵衛さえも、あまり、鰻を好まぬようだ。
鰻というものは、この当時の、すこし前まで、これを丸焼きにして豆油(たまり)やら山椒味噌やらをつけ、はげしい労働をする人びとの口をよろこばせはしても、これが一つの料理として、上流・中流の口へ入るものではなかったという。
それが、上方からつたわった調理法で、鰻を腹から開いて、食べよいように切り、これを焼くという・・・・そうなってから、
「おもったよりも、うまいし、それに精がつくようだ」
と、江戸でも、これを食べる人びとが増えたそうな。
この後、約二十年ほどを経て、江戸ふうの鰻料理が開発され、背びらきにしたのを蒸しあげて強い脂をぬき、やわらかく焼き上げ、たれにも工夫が凝らされるようになり、ここに鰻料理の大流行となる。」
広重「東都名所 洲崎弁財天境内全図・同海浜汐干之図」
下の橋が「江島橋」で洲崎弁天と木場をつないでいる
国芳「江戸前大蒲焼」