Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

トムトムの家

幕間

2020.01.16 13:41

タイトルに意味はないですし、トムトムにも関係無いお話。

なので、このブログは読まなくて大丈夫です。

面白くもないし(それは普段から?)、どっちかっていうと重いので。

先生の次回作にご期待ください。






















































今日は完全に私事。

自分の事をどっかに書いておきたかったので思うままに書き記します。


1/15、夜中の3時に母親に起こされまして。

「お父さんが危ないって」

中々寝付けなくて寝返り打ちながら最後に時計を見たのが1時だったので眠りについたばかりでしたが、すぐに覚醒。必要最低限の準備をしてすぐさま車で病院へ。

いつもの部屋ではなく個室に移動されてました。脈拍と酸素濃度を測る計器が両方「0」を示して、暗い病棟に警報音だけが鳴り響いていました。

状況を説明してもらい。20分前まではいつも通りだったが、戻ってきたら呼吸が止まっていたそうです。強心剤を打ってもらうも回復せず。

当直の医師により死亡を確認。3時50分。


人が亡くなった時、一番悲しむ人が一番大変なんですよね。泣きたい、悲しみたいのに葬儀屋に連絡したり近親者に連絡したり。


葬儀屋が迎えに来たのは5時40分。

元々契約してた斎場はいっぱいだったらしく、その次に近い斎場へとりあえず移動。

斎場で色々説明を受けて、弟が来たので一度帰宅。

当然喪服は持っていなかったので、買いに。眠かったし何も食べていなかったけど、状況がそれを許さなかった。

まるで他人事のように状況だけがどんどん進んでいく感じで。


喪服を買って(思ったよりも高くてカードで)、帰宅して飯を食べて少し寝ようと思ったけどすぐにまた斎場へ。


さすがに少しソファで仮眠を取り、弟を最寄の駅へ送る。懐かしの(一年しか通ってない)母校。母校は何も変わったところは無かったが、駅までの道は随分と変わっていて。本当は昔住んでた家に寄りたかったけど、道がわからずに結局室見川を沿って駅まで。

特に大した会話もなく。別段それが苦痛というわけでもなく。

駅で弟を下ろしてから、また来た道を戻るように斎場へ。

翌日の14時に本来の斎場へ移動だったので、線香の火を絶やさないように(初めて知った。というか斎場に親族が泊まることも初めて知った)しつつ、セブンイレブンで食料を調達したり仮眠をソファで取ったり。


自分が家を出てからもう20年近く。一緒に居た時間と離れて暮らした時間が同じになってから父が亡くなったんだなぁと。

だから、本当なら一番一緒に居た母と二人きりにさせてあげた方がいいんじゃないかとも思ったり。

でも、なんだかんだ、特に会話もそんなにしてないけど一緒に斎場で過ごす。


テレビも特に面白いわけでもなく、ひたすら本を読む。

くだらない物から心温まる物、とにかく読む。

基本的に「読む」事が好きなんだなと改めて思う。

登場人物たちに重ね合わせることはないけど、なにかのキッカケで自分を見つめ直したり自分について考えたり。


それで、今これを書いておきたくなったんですよね。


父はキューピーマヨネーズの会社で働いてました。自分は子供の頃はマヨネーズが嫌いでしたが。今は好きですけど。

小学生の頃かな、アヲハタジャムで営業をしていて、たまに新作ジャムを持って帰ってきてました。パンに塗るツナマヨみたいなやつとかも。

ただ、我が家は基本的にパンが出ない家庭でした。なので自分は子供の頃はパンが嫌いでした。給食のパンもいつも残していましたね。


父は釣りが好きでした。

磯釣りや海釣り公園が主で、そういう日は朝4時とかに起きて家族で出かけてました。

アルミホイルで包んだおにぎりと、おかず。

一回なにかの大会で自分か弟か忘れましたが、釣って盾をもらった事がありましたね。

自分が家を出た後も長崎に釣りに行ったり船釣りを楽しんでいたようです。船釣りの真っ最中に福岡地震があった時は凄く心配したものです。


父は畑が好きでした。

平日でも朝5時とかに起こされて、畑まで車で30分くらい走って手伝ってましたね。

今自分が早起きなのは、きっとこういうのがよくあったからなんじゃないかと思います。

入院する直前まで畑はやってましたね。畑を処分する時はとても切ない気持ちでした。


父は散歩が好きでした。

よく携帯ラジオを聴きながら、朝と夕方行っていました。

本当は(医師が言うには)足が相当痛かったはずなのに、毎日ゆっくりでも行っていたようです。

自分が今歩く事が好きなのは、遺伝ですねきっと。


父は歌が上手でした。

子供の頃は家でカラオケやってましたね。トロフィーとかもたくさんあったし、思い出せる限りではたしかに上手かったと思います。演歌でしたが。まず思い出すのは「兄弟船」です。

歌が好きなのも、遺伝かなぁ。


色々とね、思ってはいるんですよ。

でも生来の自分の気質として、基本的に自分の思っている事とかを話せないんですよね。

人見知りというのも、その辺から来ています。

こういう話をすると大抵の人には嘘だと言って笑われますが。でも自分が何か突っ込んだ部分を吐露したり、悩み相談をしたり、そういう部分は見てないはず。自分にそういうのをされた人はおそらくほぼ居ないでしょう。

そう出来たらもっと気持ち的に楽に生きられるんだろうなぁとは思いつつ、だからと言って積極的にしていこうとも思ってなかったり。


何が言いたいんだろう。思ったままにどんどん打ってるからよくわかりませんね。


父が3度目の脳梗塞で倒れて、その過程で片足を失い、そのまま寝たきりになった時に「いつか」は来るだろうと覚悟していて。

去年の今頃、一度危ない状況になって駆けつけた時は持ち直して。改めて覚悟を決めて。

実家から横浜に戻る度に「これが最後かもしれない」と思いつつ「またね」と別れて。

それがまさか自分が帰省してる時に、全く不意打ちに「いつか」が訪れるとは思いませんでした。

覚悟していた分、どこか落ち着いた部分もあったり。

もちろん悲しくないなんてことはないです。

ただ、一番悲しいのは母だと思うので自分は少し落ち着いたポジションで見守ろうと思っています。


あーもう、長々と。本当に誰が得するんだっていう長文。


明日は告別式。そう思うと色々考える事があるけど、自分語りはここまで。

あくまでも「幕間」なので。


それでは、また。