【京都縦貫自動車道で巡る】2020年大河ドラマ『麒麟がくる』明智光秀ゆかりのお城へGO!
明智光秀が主人公の大河ドラマ『麒麟がくる』の放送が始まりました!
今回は長岡京市を起点に京都縦貫自動車道を利用してスムーズに巡ることができる「光秀ゆかりのお城」をご紹介します。大河ドラマでどんな風に地元の歴史が描かれるのか、楽しみでなりませんね。
お城巡りのスタートは交通アクセス抜群の長岡京市から!
京都駅や四条河原町から電車で約10分、阪急&JR、京都縦貫自動車道、高速バスと交通アクセスが充実した長岡京市を起点に、京都縦貫自動車道を利用して丹波、丹後へと大河ドラマゆかりの地巡りをしませんか?長岡京駅や長岡天神駅前からぜひレンタカーをご利用ください。
個性豊かな数々のお城とお立ち寄りスポット
今回ご紹介する光秀ゆかりのお城は4つ!
●勝龍寺城@長岡京市
●丹波亀山城@亀岡市
●福知山城@福知山市
●田辺城@舞鶴市
途中、OPENしたばかりの「麒麟がくる 京都大河ドラマ館」(京都スタジアム内)や福知山市の「福知山 光秀ミュージアム」、ご当地グルメやショッピングが楽しめる道の駅「京丹波 味夢の里」にもお立ち寄りください。
明智光秀が最期の夜を過ごした「勝龍寺城」@長岡京市
織田信長の家臣団として活躍した明智光秀と細川藤孝は、特に京都と縁が深い戦国武将。両家とも福知山や亀岡、長岡京、舞鶴、宮津など、現在につながる京都の地方都市を拓き、礎を築きました。
明智家なくして語れない細川家!まずは光秀の盟友&親戚・細川藤孝が城主を務めた勝龍寺城からスタート。勝龍寺城のポテンシャルの高さを知っていただきましょう。
リニューアル1か月で来城者1万人超え!「勝龍寺城歴史ミュージアム」
昭和63年に発掘調査が行われた勝龍寺城跡は、平成4年に勝竜寺城公園としてOPEN。その後、昨年(2019年)11月に全面リニューアルしました。
勝龍寺城2F歴史ミュージアムでは「戦国乱世を駆け抜けた4人の物語」と題して、勝龍寺城にゆかりのある明智光秀と娘・玉(のちの細川ガラシャ)、細川忠興、藤孝にまつわる物語を映像やパネルでわかりやすく解説しています。
ここで光秀との関わりを簡単にまとめてみましょう。
▶リニューアルオープンの記事はこちら
光秀が仕えた!?戦国武将・細川藤孝
【勝龍寺城 歴史ミュージアムの展示パネルより】
実は光秀、信長の前は藤孝に仕えていたそうです。光秀とともに、足利義昭と織田信長を結びつけるために奔走したのが藤孝。藤孝は信長の命により勝龍寺城を改修、その恩賞として長岡(長岡京市・向日市周辺)を領地として与えられたことから、「長岡藤孝」と名乗ります。藤孝は一時、「古今伝授」の唯一の継承者だったことでも有名。
▶光秀と藤孝、歴史学者・磯田道史先生のインタビュー記事はこちら
光秀の娘・玉が細川家へと嫁ぐ
【勝龍寺城 歴史ミュージアムの展示パネルより】
本能寺の変の4年前、信長の命によって光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)は藤孝の嫡男・忠興のもとへと嫁ぎ、新婚時代をここ勝龍寺城で過ごします。
cap)ガラシャ祭のメイン会場となる勝竜寺城公園。忠興とガラシャの像も
長岡京市では明智家と細川家の婚礼を再現した「長岡京・ガラシャ祭」が毎年11月の第2日曜日に開催されていますよ~。
▶「長岡京・ガラシャ祭」の記事はこちら
光秀が最期の夜を過ごした勝龍寺城
【勝龍寺城 歴史ミュージアムの展示パネルより】
本能寺の変で主君・信長を討った光秀は天下人になりますが、その後勃発した「山崎・勝龍寺城の合戦」でライバル秀吉に大敗。勝龍寺城に逃げ込み、最期の夜をここで過ごします。翌朝、光秀は居城・坂本城へ向かう途中、山科・醍醐あたりで落ち武者狩りによって殺されたと伝わります。
坂本城へと向かうために光秀が通ったとされる勝龍寺城の北門から続く道。こちらもぜひ歩いてみましょう。
「山崎・勝龍寺城」の合戦で光秀が本陣を置いたとされる恵解山古墳
光秀ゆかりのスポットとしてぜひお立ち寄りいただきたい「恵解山古墳(いげのやまこふん)」。山崎・勝龍寺城の合戦で光秀が本陣を置いたとされます。勝龍寺城から徒歩10分ほど。
▶ブラタモリでお馴染み梅林さんが紹介する恵解山古墳の記事はこちら
藤孝(幽斎)や忠興、ガラシャが使っていたかも!?特別企画展「勝龍寺城の茶道具」を開催中
光秀以上に藤孝や忠興は茶の湯や連歌、囲碁、能などをこよなく愛する当代きっての文化人でした。勝龍寺城跡の発掘調査では茶釜や茶壺、天目茶碗、茶入などの茶道具が数多く出土したことから、勝龍寺城が文化的な活動の場でもあったことがうかがえます。
もしかするとこれらの茶道具、藤孝や忠興、ガラシャ(玉)が使っていたかも知れませんね。
※2020年4月5日(日曜)まで歴史ミュージアムにて開催中、入場無料
勝龍寺城ってどこがどうスゴイの?
歴史のエキスパートも大絶賛!近世城郭の“原型”が勝龍寺城だった!!
ブラタモリでお馴染み梅林さんや、歴史番組でもひっぱりだこの城郭考古学者の千田先生が口をそろえて、「本当にすごい!」と太鼓判を押す勝龍寺城。どこがどうスゴイのかをまとめます。
千田先生が現地レクチャーする動画を見ればよりわかりやすいのでぜひご覧ください!
▶千田嘉博先生の「勝龍寺城」現地レクチャー ①北門枡形虎口
▶千田嘉博先生の「勝龍寺城」現地レクチャー ②光秀出陣テラス
戦国時代の前後でお城の常識が全く違う!?
一般的に室町時代までは、合戦の際は山の上にある山城へ、日常生活は山麓にある居館でといった風に城を使い分けていました。しかし、戦国乱世になると山城が住居と軍事、両方の役割をもつ城に移行します。
流行の最先端が勝龍寺城!信長の安土城に先行し、共通点が多い!!
cap)防御性の高い出入り口、L字型の枡形虎口を模し勝龍寺城南門へと続くアプローチ
近世城郭の始まり、信長が築城した今はなき安土城には生活・政治・軍事と3つの顔がありました。(日本において近世城郭の代表が皆さまご存知の姫路城や彦根城など)
また、天守や高石垣、瓦葺、礎石をもつ建物、防御性の高い出入口の構造をもち、信長の権威を示すためのお城でもあったそうです。
Cap)公園内解説版より。「殿主(でんしゅ)」とも呼ばれた、いわゆる「天守」が西辺土塁(どるい)の上にあったと考えられるそう
ここが勝龍寺城のすごいところ。なんと安土城が築城される5年も前に、「天守や高石垣、瓦葺、礎石をもつ建物、防御性の高い出入口」といった安土城の構造と多くの共通点をもつ当時最先端のお城に大改造されていたんです。近世城郭への転換期をあらわした貴重な城跡が長岡京市にあったんですね!!
勝龍寺城を大改造することで、信長が西国や高槻周辺の大名に睨みをきかせていたことも想像できますね。
Cap)緑のこんもりした丘が西辺土塁。城内から登ることができる
Cap)西辺土塁の上に上がると、天王山の眺望が楽しめる。「山崎・勝龍寺城の合戦」布陣図もある
Cap)西辺土塁から見る南門方向。橋を渡って攻めてくる敵に横矢をかけるための櫓がここにあったとも
光秀の坂本城と同じデザインの瓦が出土、信長もサポート
【勝龍寺城 歴史ミュージアムの展示より】
勝龍寺城から大量に出土した軒丸瓦が光秀の居城・坂本城と同じ三ツ巴の木型で作られたことも明らかになっています。信長が瓦師集団を現地に送り込み改修のサポートをしていたことがうかがえます。歴史ミュージアム内に展示中。
約400年前の石垣と、光秀が通った北門の跡
北門入口付近、石垣がL字型に。ここに攻めにも守りにも強い「枡形虎口(ますがたこぐち)」の遺構が残っています。「江戸時代の城とさほど変わらない構造がすでに出来上がっているところがすごい」千田先生絶賛ポイントでもあります。
Cap)公園内解説版より。こちらは細川時代の北門の想定復元図
赤線より下の石垣は400年前の藤孝が築いた石垣そのもの。歴史を感じさせる風合いがありますね。さらに石垣をよく見ると墓石が混じっている!!こちらは信長の城づくりにみられる特徴の一つといわれています。
北門すぐ横、こちらにはかつて勝龍寺城の石垣に使われていた石仏や五輪塔などを集めています。当時、石材の供給システムが整っていなかったため不足分は周辺のお寺から集めたようです。急ピッチで工事していたことがわかりますね。
Information
勝龍寺城(勝竜寺城公園)
075-955-9716(長岡京市公園緑地課)
長岡京市勝竜寺13-1
9時~17時
無休
長岡京ICから車で5分
※歴史ミュージアムは勝竜寺城公園管理棟2階
明智光秀が本能寺へと出陣した城「丹波亀山城」@亀岡市
天下統一するために京都を統治したかった信長から、丹波地方の攻略を命じられた光秀。丹波亀山城は天正5年(1577)ごろ光秀が築城。丹波攻略の軍事拠点に、また城下町を整備したことから経済の拠点でもありました。
丹波平定を成し遂げた天正7年(1579)、丹波の国を信長から与えられ領主になります。そのわずか数年後に起こったのが日本史最大のミステリーともいわれる“本能寺の変”。光秀は信長を討つため約1万の兵を挙げ、丹波亀山城から本能寺へと向かったのでした。
明治初期に撮影された亀山城天守古写真(美田村顕教撮影)。慶長15年(1610)江戸幕府により大改修が行われた丹波亀山城は近世城郭の仲間入りを果たしますが、その後、明治に入り廃城処分に。
現在は石垣などの遺構を見学することができます。ちなみに亀岡という地名、三重県の亀山と混同するので明治2年に亀岡と改称されたともいわれています。
Information
見学希望の方は0771-22-5561(大本教本部の総合受付)まで
亀岡市荒塚町内丸1
9時~16時
無休
亀岡ICから車で10分
光秀が人生の絶頂期に築城した「福知山城」@福知山市
約5年の歳月をかけて丹波平定を成し遂げた光秀が政治の拠点として天正7年(1579)頃から築城し、その後、娘婿の明智秀満が入ります。
光秀は逆賊というイメージもある一方で、城下町の整備に伴う治水工事や税の免除をするなど領民をとても大事にした一面もあることから、領民に慕われる良き領主でもあったようです。
明治の廃城令により天守など大半を失った福知山城。現在の建物は江戸時代の絵図を元に昭和61年に再建された天守です。3層4階の望楼型になった大天守からの絶景は必見!!
天守台の石垣の一部は光秀が築城した際のものだと考えられています。※赤矢印の石垣に斜めの線が入っている部分の右側一帯
石垣をよく見ると転用石(五輪塔など)が混じっているのがわかりますか?一説によると、旧勢力の象徴である寺院から石を集めることで権力を誇示しようとしたとも。同時に光秀はそれらの寺院に代用石を配って気遣ったという人柄が想像できるエピソードも伝わっているんです。
また当時、石材を調達する石切丁場がまだなかったことや、光秀が築城を急いでいたため転用石が多くなったとも考えられるそう。
Information
福知山城
京都府福知山市字内記5
0773-23-9564
9時~17時(入館は16時30分)
無休(12/28-31休館)
大人330円、こども(小・中学生)110円
福知山ICから車で10分
光秀以上の超文化人・細川幽斎が隠居した城「田辺城」@舞鶴市
明智光秀と共に丹波・丹後平定した細川藤孝が築城した田辺城。城作りの名人、光秀もさまざまなアドバイスをしたようです。
田辺城があった場所は現在、舞鶴公園となっており市民の憩いの場に。残念ながら細川時代の建物は残っておらず、天守台の石垣(上の写真)に往時を偲ぶばかりです。
Cap)舞鶴公園内にある田辺城資料館
長岡(長岡京市・向日市周辺)を信長に返し、藤孝が丹後の領主になったわずか2年後のこと。明智光秀が主君・信長を討った“本能寺の変”の知らせを聞いた藤孝は、信長の追悼の意を示すため出家。名を幽斎(ゆうさい)と名乗り、家督を息子の忠興に譲ってここ田辺城で隠居生活を送ります。
Cap)現在の田辺城の城門は平成4年に建てられたもの
本能寺の変の後に起こった光秀VS秀吉の「山崎の合戦」では、細川家が光秀に味方しなかったことも光秀が天下をとれなかった大きな理由の一つだと考えられています。
また田辺城といえば有名なのが“もう一つの関ヶ原”とも呼ばれている「田辺籠城戦」。西軍1万5000人VS幽斎軍500人と圧倒的不利な状況で、幽斎は一族で自害する覚悟をしていました。
しかし幸いなことに、当時、幽斎が唯一の古今伝授の継承者だったことから天皇により停戦の命が下され、見事!幽斎はピンチを乗り切ったのでした。
Information
田辺城資料館
0773-76-7211
京都府舞鶴市字南田辺15-22
9時~17時
月曜休館(月曜日が祝日にあたる場合はその翌々日)、祝日の翌日、年末年始
大人200円、学生100円
舞鶴西ICから車で10分
戦国ロマンを体感しにぜひお越しください!!
大河ドラマの放映で明智家・細川家に注目が集まる今年!ゆかりの城や町はいずれも京都縦貫自動車道で繋がりアクセス抜群。長岡京市を起点に4つのお城を巡って、ぜひ戦国ロマンを体感してください~。