「宇田川源流 日本万歳!」 災害被害者を忘れないという日本人の心の結晶となった阪神大震災の追悼式
「宇田川源流 日本万歳!」 災害被害者を忘れないという日本人の心の結晶となった阪神大震災の追悼式
月曜日は「日本万歳!」、多くの人に日本のすばらしさを知っていただきたいと思う企画で、「マンデーブルー」といわれる、これから仕事をしなければならない月曜日の朝に、同じ日本人であることを誇りに思いそして日本という国すばらしさを感じていただき、そのうえで日本人であるということから、頑張っていただきたいと思うものである。
私のように、あまり頑張らないような人は、できる限り、素晴らしい日本人のことおwこのような場所に書いて、日本人のすばらしさを伝えることで応援してゆきたいと思うのである。
さて、日本人のすばらしさを感じるときに、二つの側面があるといわれている。私自身は「二つ」ではなく「三つ」であると思っているのだが、とりあえず、その二つを考えてみる。
一つ目は「他人より秀でてすばらしい結果を残すこと」である。ノーベル賞などはまさにそのものであると思うのであるが、様々な努力やざまざまな困難を乗り越えて、そして他人ではできないことをやり遂げるということは、非常に素晴らしいと評価されることではないか。
もう一つは、「自分やその集団が危機に、いかにその危機を乗り切るか」ということではないかと思う。まさに危機の時というのは、様々な悪の誘いがある、その様々な悪の誘いを断り、集団のためにいかに行動することができるのかということが非常に大きな問題になる。その時に「貢献する」ということがどれほど偉大なことなのであろうか。日本人の「助け合い」という心は、このような時にすさまじい力を発揮するのである。
そして私が考えているのが「基本を継続すること」である。これはあまり言われないのであるが、「当たり前」を普通に行うことができるというのが、非常に重要である。いつの間にか奇をてらってみたり、あるいは、何か変えてみたりするが基本をずらさずに、そのことができるということは非常に重要で、人間は常に基本に戻って考えることができるかどうかが試されていると思う。
さて、今日の「日本万歳」は、その二つ目と三つ目の「すばらしさ」を感じていただきたい。
阪神大震災25年 高齢化で追悼行事減少 神戸市民追悼式は今年で終了
阪神大震災25年に合わせ、民間団体により60件の追悼行事が開かれることが、市民グループのまとめで明らかになった。行事は5年ごとの「節目」に多くなる傾向にあるが、今年は最も多かった「震災20年」の2015年より50件少ない。関係者からは震災の記憶の風化を懸念する声も上がっている。
「市民による追悼行事を考える会」(神戸市)によると、行政主催を除いた追悼行事の回数は、震災10年(05年)が101件▽震災15年(10年)が102件▽震災20年(15年)が110件。節目以外の年は近年50件台で推移し、昨年は53件だった。
行事の減少には、被災者の高齢化が影響しているとみられる。01年から毎年17日に神戸市で開かれてきた「市民追悼式」は、実行委のメンバーが70~90代になったことなどから、今年で終了する。メンバーの一人で日蓮宗立本寺(甲府市)の住職、石原顕正さん(68)は「年に1度、被災者とボランティアがお互いの無事を確かめ合う場にもなっていた」と振り返る。
考える会世話人の計盛(かずもり)哲夫さんは「追悼行事を積み重ねることで防災は『文化』になる。世代を超えて震災の記憶が継承される機会が続いてほしい」と話している。【反橋希美、春増翔太】
2020年01月11日 11時23分 毎日新聞
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12159-0111m040087/
今から25年前の1月17日、今でもあの日は覚えている。
私はマイカルの独身寮で、兵庫県西宮市、ちょうど西宮北口の駅前にあった西宮SATYの駐車場の片隅にある寮に住んでいた。
前日まで東京の実家に帰っていて、翌日から仕事だからといってなんとなくいやな予感があった(ほんとうにあったんだよね)にもかかわらず、新幹線に乗って23時くらいに帰宅した。その数時間後、何か大きな音(今から思えば地鳴りであったのかな)でうるさいなと独り言を言いながら目を覚まし、そして体が何者か大きな力によって揺らされ、なんだと思って重たい瞼を開いたら、冷蔵庫が躍り、そして当時法務部の仕事道具であった六法が空を飛んでいたのである。そして後ろからテレビが飛んできて後頭部を直撃した。
数時間後、ゆがんで空かない扉を体当たり数回で開けて、外に出てみれば、道路は深い地割れで注意しないと穴に嵌るような状態であったし、また、目の前の工場からは何か不気味な音がする。それに比べて町はかなり静かで、なんだかよくわからない状態であった。
あの地震からもう25年がたったのかと思う。
その日は部屋の片づけ、まあ、ほとんどの物を捨てるだけであったからあまり大きな問題にはならなかった。しかしその後当日の14時くらいに、水も電気もガスもすべて止まってしまい、そこからがかなり大変な毎日を過ごすことになったのである。それでも、電気もガスもない部屋に二週間ぐらい住んでいたか。まあ、部屋の中で冬物のコートやダウンジャケットを着て寝るのはなかなか大変なことであった。
さてあれから25年。毎年この日が来ると追悼の式典がある。すでに、成人して働き始めた人々も、多くいる。しかし「忘れない」ということが最も大きな力になっているのではないか。
昨年三宮に行った。なぜか三宮には、あまり縁がなかったというか、自分であまり近寄らなかった。私の記憶の三宮はビルが数軒倒れていて、アーケードの商店街も余震のたびにがたがたと音がしていた記憶がある。今ではとてもそのような光景であったことなどは覚えていない。この町に多くの命が、あの日に飲み込まれていったということを、日本人は多く考えている。
そして、「その災害の時」に大きな事件も起こさず「助け合い」を行うのが日本人のすばらしさだ。被害の記憶、震災の記憶は、そのまま日本人の助け合いの歴史であり、エゴを抑えて多くの人を助けるために自分が何ができるかを自分たちで実践していた。
考えるよりも人を助けるために先に行動をしていた時期ではなかったか。他の国の憑依略奪をしたり、変なデモを起こすのではなく「日常の生活を続けること」が最も偉大であり、そして助け合い、そして日常を取り戻す、そしてその中で多くの犠牲者を悼み、そして、その人々のおかげで今日の自分があるということを感謝する。これが、日本の偉大な文化であり国民性であり、他の国の人々にはないおおきな「力」なのではないか。
1月17日。これから遺族の高齢化などによって追悼の式典は少なくなるといわれているが、実際にそのような日本人の心は、阪神大震災に限らず様々なところで発揮するしまた語り継がれることになると思う。
日本人で本当に良かったと思う記念日でもあるのではないか。