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炭子のへや

なまりはのむもの

2020.01.21 06:00

あらすじ

長期入院している祖母に会いに行く孫の話。


 黄ばんだ文庫本の文字を、枯れた松枝がなぞる。何度も読み返された本は、小口が擦り切れて赤茶けている。彼女とその身体とは、病床についてから随分と精気を失った。

 ふいに病室のドアが全開になり、小さな男の子が勢いよく走り寄る。


「おばーちゃん、来たよ。見てみて、恰好いいでしょう。あれ、またご本読んでるの。なんていう本なの。僕にも読めるかな。」


 ベッドに身を乗り出して矢継ぎ早に質問を繰り出す彼は、彼女の孫であった。彼女は本に栞を挟んで机に置き、彼の頭を撫でてやった。小さな手には不釣り合いな、小口径の拳銃が目の前に掲げられる。少しばかり動揺しつつもよくよく見れば、プラスチックの弾が装填された玩具なのであった。

 彼女に見せたことで興味が失せたのか、すぐに脇の棚へ置いてしまう。


「おばーちゃん、いつもより元気でしょ。ママが来るまで寝ないでね。」


 もぎたての桃が上目遣いに彼女を見た。丁寧に触れてやれば擽ったそうに、にこにこ笑った。彼は彼女に触られるのが好きなのだ。

 程なくして彼の母親がやってきた。彼女の息子と一緒になった人だ。


「お義母さん今日はいくらか気分が良さそうですね林檎を持ってきましたから剥いてきます、」


 たっぷらした鞄の中は母親の荷物ではなく彼女の着替えであろう。母親は手早く荷解きをすると、林檎を2つとお皿をもってすぐに病室から出て行った。


「おかーさん、病院嫌いなんだって。なんでだと思う?薬品の匂いがするからだよ。おばーちゃんは病院好き?」


 大ぶりのビー玉と老木のうろとが相対する。しっとり、時間は流れた。突然彼がぷーっと吹き出し、けらけら笑い始める。彼と彼女に言葉はなくとも、意思疎通の不自由は無かった。


「大っ嫌いなんだね。僕も嫌い。注射されるし、お薬飲まされるし。ねえ、逃げ出そうとは思わないの?」


 逃げ出すという言葉を久しく耳にした彼女の脳裏には、背高い森林が広がった。大して広くもないのに、鬱蒼として、足を踏み入れた者は絶対に返さないという圧力を感じる。彼女は若い頃に迷い込んでから、出られないまま、さまよい歩くうち廃屋を見つけて、そこに住み着いた。

 その廃屋に、今度は彼がやってきたのだ。


「うん、まあ、確かに、おばーちゃんは病院から出たらすぐに倒れちゃうよね。でも僕、おばーちゃんに見せたいものがあるの。」

「こらこらあまりお義母さんを困らせないの、うるさくしてしまってすみません切ってきましたよかったらいかがですか、」


 若葉の彼は、鳴き続けるあまりいつ息継ぎをしているのか知れない小鳥を連れている。ずいぶんやかましく鳴くものだ、と、彼女は神経質に皮を剥かれ生真面目に切り分けられたりんごを1つ摘まんで、食べやすいように手のなかで小さいひとかけらをつくって、その木の根の隙間にねじ込んだ。


「主人が出張先で農家から直接頂いてきたので新鮮だとは思いますお口に合うといいのですが、ほら林檎だよお前も食べるなら自分で取りなさいひとつずつね、」

「うん。おばーちゃん、嬉しそう。僕も食べる。」

「お前はどうしてこの人の気持がわかるのかしら一言も口をきかないから私にはわからないわ、美味しく感じているのねそれはよかった、」


 小鳥の囀りを黙殺して、長年風雨に晒された松の木はその枝葉で彼を撫でようとした。その枝に気付いて彼は寄り添う。その仕草は自然で、永い時間を廃屋で寄り添って暮らしたことを小鳥に知らせた。彼女は小鳥がやっと口を噤んだのを満足に思いながら、若草の髪と茹で卵の頬とを、いくらか葉の芽吹いた松枝でそよそよ撫ぜた。


「お義母さん私は医者へ病状の説明を聞きに行ってきます息子をよろしくお願い致します、お前は良い子にしてお義母さんの言うことをちゃんと聞きなさいね、」

「わかった。」


 小鳥は高らかに羽音をさせて廃屋から出て行った。

 再び静寂を取り戻した廃屋で、彼は、彼女のために剥かれた林檎を無心に食べた。二つ三つを残して彼女の前に戻す。珍しく神妙な表情をしたので、彼女は心配になった。膝の上にきつく丸まったパンの、ふたつのうちひとつをそっと松枝が包む。いつぶりだろうか、その枝には生気が戻っているのを感じた。


「あ、あのねおばーちゃん。僕ね、お婿さんになるの。もう決めたんだよ。歩はね、すごく良い子なんだよ。おばーちゃんにも会ってほしいの。」


 思い切ったように顔をあげた、ふたつのビー玉は今にも破裂しそうなほどの激流を湛えていた。頬袋は桃色に染め上がって、唇は真一文字に結ばれている。彼女の根から音が漏れて、それきり根が開くことはことはなかった。手のなかのパンはじっとり汗ばんでいる。本気でこの廃屋に、誰かを呼ぼうとしているらしかった。


「おばーちゃん?」


 彼は、彼女の指先が急速に冷たくなっていくのを感じていた。そのまま凍りついてしまいそうなほど、冷え切って、彼の手からゆっくり離れた。怒っているわけでもないし、悲んでもいない。初めて、彼は彼女のことがわからないということを経験していた。怖くなった彼は、さっと手を引いて膝の上に丸めてしまった。


「お待たせしましたあれどうしましたかそんなに黙りあって珍しいこともあるものね、さあ帰りますよ仕度なさい本当にもうへこたれちゃってどうしたのかしらいつもはちょこまかてきぱきお手伝いできるのに、お騒がせしましたまた来ますね、」


 彼女の廃屋から、小鳥に連れられて彼は遠ざかっていった。薄く長いすきま風を根から吐ききってしまうと、久しぶりに窓の外を眺めた。雲ひとつない空に日が傾いて、橙色から緋色へと変わっていく。

 直射日光に眩しくなって脇の棚に目を移すと、彼が置いていった銃が目に入った。彼女はそれを手に取って口腔内に捻じ込むと、躊躇うことなくトリガーを二回引いた。