お墓ハラスメント?
先日、全日本仏教青年会主催の『現代の僧侶を考えるワークショップ』がで開催され、私も参加したディスカッションの中で、現代は少子高齢化や晩婚・非婚化も加速しており、葬送や死生観が多様化しているのだから、家墓を継承することだけが選択肢ではいけないのではないか、という話題になりました。子どものいない夫婦や独身者にとって、家墓を継承するのは将来的な不安が大きく、その意味では家墓そのものが、心理的ストレスのそのものであり旧態然の象徴、そんなところまで話が進みました。
「もしかして、それって〝お墓ハラスメント〟ってこと?」
私は思わず声を上げました。
我々僧侶が檀信徒に対して先祖供養の大切さを説く、それ自体は悪くないにしても、それを絶対無二の「根本法」のように扱うと、その話を聞いた檀信徒の中には、先祖の供養はしたいけれど、訳あって承継者がおらず無念だという「救われない」思いに駆られる人もいるのではないか。祭司者である僧侶が「権威」として機能する関係性ではなおさら、現代的にはもはや「お墓ハラスメント」とも言える構造になってしまう危険性があるかもしれません。
数日後に、ある先輩僧侶の方に、「お墓ハラスメント」について、どう思うか伺いました。
するとその方は「そういう視点はすごく大切」とした上で、ご自身の檀信徒の中に、家で納骨ができる仏壇を買い求めた人がおられ、これを許容して祭祀を認めた、と話をして下さいました。つまり、その僧侶は、相手によって柔軟に手段を駆使されているのです。いわゆる対機法です。
お墓や供養の主体性は我々僧侶にあるのではなく、あくまでも施主や遺族にある。僧侶の「あるべき」や伝統のひな形を徒らに押し付けるのではなく、施主や遺族にとって何が一番の「安心(あんじん)」か。そのための最善の手段は何か。それを問い続け、対機に徹する姿勢こそが、現代の々僧侶には求められているように感じます。(副住職 記)