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宗淵寺/願興寺

廃仏とヘイト

2019.09.15 11:43

先日、ある研修会の講師でお招きした民俗学者の先生を、研修会の翌日に七類港までお送りしました。隠岐島に廃仏毀釈の調査に行かれるとのことでした。浄土宗の僧侶でジャーナリストの鵜飼秀徳さんも、昨年末に廃仏毀釈についてまとめた『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』を上梓されていますが、人形浄瑠璃とVtuberの相関性についても考察をされているその先生のことですから、明治時代に起きた廃仏毀釈と現代の通底する視点をお持ちなのではないか。

私はある思い当たりがありました。それを確かめるため、車中で先生に「廃仏毀釈は、現代で言えば〝ヘイト〟に当たるんでしょうか」と尋ねてみました。先生は「そうかもしれませんね」という程度の相槌ではありましたが、私はそのように仮定するとつじつまが合うような気がしました。


ヘイト(スピーチ、クライムなど)とは、「憎悪する」「特定の属性を持つ個人や集団に対して、偏見や憎悪が元で引き起こされる嫌がらせの言動や暴力行為」と定義されますが、現代では「ある(政治的)目的のために仮想敵を設定し、排斥することで熱狂を維持させる演出」と言えないでしょうか。

その仮想敵に、かつての明治維新では仏教者がなっていたとするならば、現代に生きる私たちにとっても、ヘイトは看過できないテーマとなると思います。


隠岐では、苛烈な廃仏毀釈の後、一部では仏教への回帰も見られました。久見地区に残る久養寺跡も、その一例でしょう。私は、昭和になって施主や地域の人が久養寺を再興した動機に、過去の行き過ぎた廃仏への贖罪があったように思えてなりません。

奇しくも、先日ある僧侶がヘイトツイートをしたということで、所属する教団が公式に謝罪するというニュースがありました。当該の僧侶は、ヘイトされる当事者としての立場を、歴史から学ぶところがなかった、ということになってしまいます。

ヘイトを許さないという主体的な言葉は、先人が廃仏毀釈に遭った仏教徒の私たちだからこそ発することのできるメッセージなのではないでしょうか。(副住職 記)