1%
2017.02.20 21:30
毎月17日は、うちの寺の観音講の恒規法要があり、講員(信者)の方々がお集まりになられます。法要が終わった後、私は「法話」と称した駄話を、10年以上続けていますが、ある日の夜にネットを見ていたら、
『「心打たれる」1% 話術磨くより信心涵養を』
という記事を見つけ、ゾッとしました。浄土真宗本願寺派さんの調査によると、法話に心を打たれた人の割合は、聴衆のわずか1%、だというのです。
調査の前提や条件に差異があるので、私の法話にそのまま当てはめることはできませんが、それにしても1%というのは・・・。
テレビの視聴率なら、とっくに打ちきり。うちの観音講のお参りが、大体20名から30名として、1%だと、あの日あの場所にいた誰一人として感化できていないことになります。
わずか1%の実効性しかない法話は「オワコン」(終わったコンテンツ)と言われても仕方ありません。
「お坊さんが一番、仏教を信じていない」。
昔、ある著名な文化人類学者が僧侶向けの勉強会でそう直言したのを聞いて、当時は反発心を覚えたものでしたが、今になって、ようやくその真意が分かってきた気がします。
現代の聞法者は、知性も社会的地位も上がっている分リテラシーも高く、借り物の言葉や〝偽者〟はすぐばれる。そのことを言っていたのでしょう。僧侶が法話を発露するまでの、日常生活に裏付けがどれだけあるか。法話は身体言語であり、身心言語。
1%は、「少ない」ではなく「重い」数字と受け止めなければなりません(副住職 記)