オープンな発問の効用
読み物、教材のはじめに題名読みを行う。
「題名を聞いて思ったこと、感じたこと、考えたこと。イメージしたことなんでもいいよ。」
道徳の読み物を読んだあと、
「思ったこと、感じたこと、隣の人とはなしてください。」
このオープンな質問について9年間言われ続けたことがある。
そしてそれでも辞めない理由もある。
初任研、研究授業、道徳地区公開講座、授業観察。
この発問が自由すぎるという指摘である。
ねらいと関係ない。
価値項目がずれる。
時間がもったいない。
意図が不明。
多かれ少なかれ、言われ続けている。
もちろん誤解がないように言うが、
授業にはねらいがあるし、
授業の入り口に、行うことで、本時のテーマに興味をもたせたり、
率直な感想を聞くことで、主体的にねらいに近づくことができる可能性も感じてたり、
もっというと子どもの発見や「おーそこがこの子は一番気になるのか?」という発見があったり、
それなりの意図がある。
先日も「友達が腹いせにボールを遠くに蹴り取りにいかせた」というような内容が読み物教材の文章の中にあったとき、
子どもの中からいじわる、ひどい、などの声が上がった。
「担任の先生に言わないのが不思議」という感想をある男の子が出した。
とても告げ口の多い子である。不満を感じると、言わずにはおれずなんだなぁということをあらためて感じた。
そういう意見や感想が受け入れられるから、自分ごととして考えられるのではないか。
また、読んでいて疑問に思ったことを素直に聞いてもらえるから、あーそうかやそーいうことかと、
気楽に聞いてもらえて解決できる安心感を抱いて。落ち着いて参加できたりするのではないだろうか。
なのでぼくが言いたいことの一つは、「考えてほしいところ」に至るまでのスモールステップ的な効用が「オープンな発問」にはあるということである。
2つ目は、発言できる雰囲気、それが楽しい、聞くのも楽しい。
そういう雰囲気を作っていく過程で「オープン的な発問」はとても重要なのではないかということである。
難しくない。間違いがない。だけど、一人一人の考えには違いが生まれる。ぼくだけの意見が言える。
この積み重ねが、発言を楽しむ雰囲気をつくっているのではないかと感じている。
今のところというか非常に感覚的なんだけど、
どうして1学期はあまり発言しなかったこの子は、発言するようになったんだろうとか考えると、
自由に言えた、そして認められたという気持ちが、自信を生んだのだと思う。
研究授業などで。たくさんの子どもが発言していることを褒めて、オープン的な発問を否定する方がいらっしゃったりするが、
この2つが繋がっている可能性に目を向けていただきたい。
もう少し言うと、シャイな子や声の小さい子への指導をと、提言される方もいるが、
シャイな子や声の小さい子が、30人の前で手を挙げて意見を言えていることに、いいなぁと感じるような感覚も大事だと思う。
さて、ねらいらからそれないように発問を組み立てる授業についても思うことがある。
レールが敷いてある授業についてである。
聞こえが悪かったら申し訳ないが、発問に対する子どもの答えは、教師の手の中。
そんな状況の中で、本当に子どもは考えたいと思うのだろうか。
教師が答えてほしいことを子どもが考えるみたいで、なんか解せない。
少なくとも、考えることが楽しいなぁにはならないだろう。
ちょっと話はかわる。
先日、道徳地区公開講座で心震える思いをした(子どもの意見を聞いて心震えるという表現は山崎隆夫さんのうけうり)
「Aくんは楽しさという意味で公平を大事にして、Bくんは強さという意味で公平さを求めている」といった言葉がある女の子から出た。
価値項目は公正、公平、正義。かなり分析的で「サッカーが下手な友達を入れようとするAくんは優しくて公平。入れようとしないBくんはひどい」という感じの「思考」から学級全体が新たな気付きを得るタイミングだったので、心震えた。
もっというと、この意見を言った子は1度座った。気になって聞くと、ぼくの発問の受け答えと違う気がするという理由だったので、「一応言ってみて」という展開だった。
この意見を、壊さないように(下手に解説するとせっかく子どもから出たものが台無しになるし、流れないように繋げなきゃいけないと)慎重に授業を進めた。
その際、指導案にあった発問は辞めた。
今、生まれた流れを壊さないように慎重にである。
それでも、
たとえ慎重に扱っても、
多くの授業で
「お粗末様でした」と言いたくなる。
授業の難しさと力不足をまた受け止め直す。
そして真剣に受け止め続けると辛くなる。
そのときは、力不足を「伸び代」と捉え直して、肩の力を抜くよ、自分。
kenshi