日本宣教3-ザビエル天皇に謁見ならず
2020.01.23 02:22
ザビエルは薩摩の島津貴久に歓迎され、領内の布教許可を得た。短期間で100人余りが入信した。最初はヤジロウのアドバイスで、神を「大日」と称した。ザビエルは富よりも名誉を重んじ、礼儀正しく、知的好奇心を持った日本人を好ましく思った。日本の情報から堺に拠点を置くべきと手紙に書いている。
しかし布教が広がるにつれ、仏教からのクレームも露わになった。ザビエルは、やはり王に会って布教許可を得るべく、京都に行くことを決意した。1550年7月、交易拠点の平戸に移り、ポルトガル船は礼砲で迎えた。10月に京都に出発したが寒さつのる中粗末な身なりで、旅は難渋を極めた。
一行は山口の大内義隆に逗留し、12月海路で堺へ入り、51年1月都入りした。しかし想像とは違い、都は荒れ果て天皇との会見もできず、10日余りでそこを去った。ザビエルは海路平戸に戻り、さらに山口に行き、天皇に渡すはずだった土産を渡して布教許可を取った。短期間で5~600人が入信した。
ザビエルはさらに豊後の大友義鎮(後の宋鱗)にも招待され、布教許可をとった。そして11月にゴアに戻った。このとき、同行した日本人霊名ベルナルドは、55年に教皇に謁見している。ザビエルは、日本から中国の布教につなぐ目的もあったが、それは結局叶わず、52年12月3日帰天した。
下は平戸教会のザビエル像