11. 伝統尊重と個性あふれる絵画
宮廷画院の繁栄
満州族の清は、明代末に起こった各地の反乱に乗じて南下し、1644年に北京の城に入りました。1911年の辛亥革命までの260年余りの期間、中国はふたたび異民族の清に支配されることになります。
ところが、清の歴代皇帝は漢民族の伝統や文化を尊重し保護したため、清時代の絵画は宮廷画院、文人画家、そして民間の画家がおおいに活躍することになります。
清の宮廷に置かれた画院には中国各地から宗元風の院体画家の他、呉派の南宗画家などが集められ、学芸を好む皇帝「康熙(こうき)」「雍正(ようせい)」「乾隆(けんりゅう)」が続き、画院の画風は端正で精密なものに洗練されていきました。
イエズス会の修道士であるカスティリオーネ(郎世寧(ろうせいねい):清前期のイタリア人の宮廷画家)などの外国人宣教師も宮廷画家として皇帝につかえました。彼は西洋画法を伝えましたが、理解されることが少なく、中国画法との折衷様式で花鳥画や皇帝の肖像を描いていました。
四王呉惲(しおうごうん)が文人画に与えた影響
文人画は江南(こうなん)には四王呉惲(しおうごうん)と称される「王時敏(おうじびん)、王鑑(おうかん)、王 翬 (おうき) 、王原祁 (おうげんき) 、呉歴(ごれき)、惲寿平 (うんじゅへい) の6人の画家」が現れました。明代末の董其昌(とうきしょう)の理論を守って、古画の模写から学んだ構図や技法を再現して南宗正統派を他に認めさせようとしました。
そのことがかえって、自由な創作であるべき文人画を形式化し、徐々に文人画の精神が忘れられてしまいました。
清代絵画の独自性を大切にした民間画家
画院画家や文人画家の進歩、発展のきざしが見られない中、清代絵画の独自性を打ち出したのが民間で活動した明の遺民画家(いみんがか)と、金陵八家(きんりょうはっか)、揚州八怪(ようしゅうはっかい)です。
遺民画家(いみんがか)の八大山人(はちだいさんじん - 通称:朱耷(しゅとう))や石濤(せきとう - 俗名:朱若極(しゅじゃくごく))は、明の皇帝の一族で、清の支配に対する憤りを画面で表現しました。
このころ都市の発展にともない、美術品の市場が成立し、読書人の中にも画を売って生活する職業画家が誕生しました。内、南京(なんきん - 金陵(きんりょう))を拠点として活動した龔賢(きょうけん)、高岑(こうしん)、樊圻(はんき)、呉宏(ごこう)、鄒喆(すうてつ)、葉欣(しょうきん)、胡慥(こぞう)、謝蓀(しゃそん)らを金陵八家と称されています。
揚州八怪は乾隆(けんりゅう)年間(1736~1795年)に揚州に集まった金農(きんのう)、鄭燮 (ていしょう) 、李鱓(りぜん)、羅聘(らへい)、李方膺(りほうよう)、黄慎(こうしん)、汪士慎(おうししん)、高翔(こうしょう)のことで、伝統にとらわれることなく、それぞれの個性を発揮し、グロテスクと言われる画風で花鳥画を描きました。
↓ 石濤 黄山紫玉屏圖