『三景 第一景「池袋」』著者:へっけ
第一景『池袋』
照明に照らされる、水槽に囚われた無数の海月。ただ水中を浮遊しているだけに見えるが、水槽に顔を近づけてみると、わずかに傘を開閉させて泳いでいるように見える。
このゼラチンの塊は意思を持っているのだろうか?何を目的に過酷な環境の海で生きているのだろう?
僕の頭に浮かんだこの疑問は、自分自身に鋭い痛みを伴って返ってくるものだった。
気分転換のために1時間以上もの時間をかけて池袋まできたのに・・・ままならない現実の生活に落胆を覚えながら、水槽の前を立ち去る。進行方向の順序を示す看板を頼りに早足で館内を進む。
途中、蟹や鯖を横目で見るが特に興味はわかない。食材として広く知られた生物。わざわざ、生きている姿を見る必要はない。食卓でお目にかかりたいものだ。
さらに歩みを進めると、広く開けた館内中央に大型の水槽が設置されている。水槽の周りには、いくつかベンチがあり平日の昼間だというのに、1組の若いカップルが談笑にひたっている。
男女ともスーツ姿で、幼さを残す顔立ちだ。新卒で同期入社、意気投合してそのまま初めてのデートと言ったところだろう。良くある話だ。
しかし、一昨年に彼女と別れて、今年には仕事すらも失った僕にとって、今、一番視界に入れたくない光景だ。彼女の面影が脳裏に浮かぶ。普段は楚々とした振る舞いを見せながら、感情の琴線に触れると突飛な行動に出るその姿を。
疼く傷心を紛らわさようと、近くのベンチに腰掛けて読みかけの文庫本を手に取る。ページをめくるが、全く小説の内容が頭に入らない。何の文庫本を持ってきたのかとタイトルを確認すると『痴人の愛』だった。恋愛ものは、今一番読みたくない。ベンチに文庫本を置いたままその場から離れることにする。
出口への進行方向を進みながら、友人の勧めで水族館のフリーパスを買ったことを後悔してきた。その友人が失業中に、水族館で水棲生物を眺めていると無心になれて気分転換になるとアドバイスをくれたのだ。友人は気をつかって言葉をかけてくれたのだろうが、不幸にも先程、出会ってしまった海月とカップルは刺激が強過ぎた。
出口にあるエレベーターを使ってサンシャイン60の1階まで降りる。特にお店を巡るつもりもなかったので、外に出てJR池袋駅の方向を進む。大勢の人で賑わうサンシャイン通りを歩いていると小腹が空いてきた。チェーンの牛丼屋に入り、肉しゃぶ御膳を注文して食欲を満たす。
牛丼屋から外に出ると、乱立するビルの合間から、オープンしたばかりの映画館が見える。今度こそ気分転換をはかるためと、映画が特に好きでもないのに、適当な作品を鑑賞していくことにする。
何が上映されているかも知らぬまま、映画館のメインエントランスに入ると煌びやかな光景が視界を覆った。青い光で周囲を照らすシャンデリア、床は鏡のように天井を写している。照明の光と壁や天井の黒のコントラストが美しく、宇宙空間をイメージしたデザインのようだ。
メインエントランスにごった返す客よりも、この最新のデザインに視界を奪われて、しばらくキョロキョロと周囲を確認してしまった。そんなことよりも早く何が上映されているのかを確認しなければならない。
出入り口付近の発券機を操作すると、上映中の映画タイトルが並ぶ。事前に何も調べていなかったので、タイトルの語感で気に入ったものを選んだ。ある純文学の賞を受賞したタイトルと似ている。確か、若者とその祖父の物語だったような・・・また上映開始が15分後というのもちょうど良い。
売店で、カフェラテを購入してからシアターの中へ足を踏み入れる。平日の昼間ということもあってか、空席が目立つが数組のカップルがまたもいるようだ。そもそも、多くの男女が逢瀬を重ねる大都会に来たのが間違いだったのかもしれない・・・と深く後悔しながら座席に着く。すぐに、映画の予告が始まった。シアターに向かう途中で、これから観る映画のポスターを見かけたが、眼鏡の中年男性が不気味な笑みを浮かべていて、不吉なものを感じた。
今の僕の精神状態と相性が良いなと思う。救いようのない絶望的な展開が観たいのだ。人の幸せなんていらない。
シアターの照明が消えて、本編の上映が始まった。先程のポスターの男性は、他人には理解できない大きな夢を持っていたようだ。その夢の実現のために彼は、女性ばかりを狙って殺人を犯す。1人、2人、3人、4人。夢があるからシリアルキラーになった、1人の男性の物語。2時間30分の長い映画ではあったが、時間を忘れてひとつの物事に集中できたのは何ヶ月振りだろう。
冷たくなったカフェラテを飲み干して、映画の余韻に浸りながらシアターを後にする。
池袋駅から副都心線に乗り込み、自宅がある横浜市方面へ向かう。最寄駅で降りると、日が暮れていたのでコンビニによって夕飯を購入する。そこから、10分ほど歩くと築35年を越す僕のボロアパートが見えてくる。
錆びついた階段、鍵が壊れたポスト、明かりの点かない自動販売機。引っ越した当初は、老朽化した建物の様子に、震度5の地震にも耐えられないのではないかと不安を覚えたが、3年も住んでいると何故か愛着が湧いてしまう。
2階の部屋の玄関を開けるとすぐに、コンビニで買ってきた冷凍炒飯とサラダを皿に移し、食後用にインスタントのカフェラテも作る。
腹が空いていたので、15分ほどで素早くたいらげると、なんとなしにテレビを観たくなったので、床の隅に落っこちていた眼鏡を手に取る。レンズに指紋や何かの染みで汚れていて、しばらく使っていなかったようだ。
この眼鏡を見ていると、また彼女を思い出す。ストレートの長い黒髪、笑うと三日月のように細くなる瞳、純白の肌。しかし、どんな声をしていたのかが思い出せない。とても特徴的な声だったと思うのだが。別れてから3年も経つと、確実に彼女の記憶は薄れているようだ。
手に持ったままの眼鏡をかけると、ポロポロと涙がこぼれてきた。鼻水も大量に垂れてきて、僕の顔面はどんどん汚くなっていく。
記憶が薄れるだって?それは嘘だ。僕は、心の中でも虚栄心を維持しようと、平気で自分に嘘をつく。表したい感情を無理に抑えこんでしまうから、3年経っても忘れられないのだ。
彼女に、伊馬井夏子(いまい なつこ)にもらった眼鏡をゴミ箱に思い切り投げ入れ、スマホに1枚だけ残していた夏子の画像を削除する。この3年の間に、夏子の電話番号や思い出がある物は処分を進めていたが、眼鏡と画像が最後に残ってしまっていた。
今日も何でもない一日になるはずだった。夏子の存在を断ち切って、新しい仕事も見つけて、人生を再スタートさせたいだけなのに、それが今の僕には達成できそうにない。
風呂場でシャワーを浴びて、涙と鼻水を洗い落とす。シャワーを止めると、換気窓から雨音が聞こえてくる。全く気づかなかった。今朝、干した洗濯物を取り込まなければならない。
風呂場から出て部屋着のスウェットを着ると、袖が短くてサイズが合っていないことに気づく。色は薄桃色で、襟がだらしなく伸びきっている。使い始めてから数年は経っているような感じがする。そう言えばこのスウェット、一昨日にも着たばかりだ。ついさっき頭に浮かんだ自分の思いを反芻する。
『眼鏡と画像が最期に残った』
それだって嘘なのだ。
本当の僕の思いは何なのだろう?
自分を偽らない、正直な気持ち。僕の頭の中に、その言葉が浮かんでくる。それと同時に、あの白昼夢のような日々を追憶する。してしまう。
夏子と一緒に読んだ小説の話し、映画の話し、天気の良し悪しが彼女の表情に反映されていたこと。
雨は一向に止む気配はないようだ。先程より雨音が大きくなっている。
今も、東京の空の下、儚げな表情で気分を憂鬱とさせているのだろうか。
狭いベランダに出て洗濯物を取り込むと、真っ黒な猫がアパートの塀の上で、雨に打たれているのが見えた。
充分な栄養が取れていないのか、肋骨が浮き出ていて痩せ過ぎなようだ。
大きな瞳に目を合わせると、これまで多くの苦難を乗り越えてきたような力強さを持っている気がする。
そして、何処か夏子の面影もちらつく。
ベランダの扉を閉めて、窓ガラスから猫を眺めてみると、力尽きたように塀の上から地面に墜落した。倒れてあらわになった腹部をよく見てみると、出血の跡が3箇所ほどある。猫同士の縄張り争いで、致命傷でも負ったのだろうか。腹部を膨らませているので、まだ息はあるようだ。
僕は何故か、恐怖を感じながら再び猫に視線を合わせようとする。大きな瞳と目が合った。力強いけれど、悲しみも滲ませる瞳。その瞬間、僕は金縛りにあったように指一本、自由に動かせなくなった。
瀕死の猫に手を差し伸べるでもなく、僕はその瞳を見続けながら、金縛りが解けるのを待つことしか出来ない。
(続)
※続編の『三景 第二景「流通センター」』はこちら