「日曜小説」 マンホールの中で 2 第二章 2
「日曜小説」 マンホールの中で 2
第二章 2
幽霊が小林さんの嫁であることはわかった。まあ、今まで幽霊が本当にいるのではないかと、非科学的なことを疑っていた自分がなんとなく恥ずかしい。
「何とかするから待ってろ。何もするなよ。」
あの日、次郎吉はそのように言い残すと、また消えてしまった。本当に泥棒というか、忍者というか、何か一言残すと、どうやってかわからないが、あっという間に気配が消えてしまうのである。
善之助は目が見えないので、その間にどこかに消えていしまうのであろうが、しかし、目が見えないだけに周辺への感覚などはかなり敏感になっている。
その敏感になっているにもかかわらず、次郎吉がいなくなる時がわからない。扉の音なども何もなく、気配が消えてしまうのだ。やはりプロの泥棒というのはすごい。善之助はそのように思ってしまう。
あれから一週間たっても次郎吉から何の連絡もない。
何もするなといわれているから、小林さんに知らせることもできないのである。それに次郎吉がどのような行動をとっているかが気になる。
実際に、小林さんの「幽霊」は、小林さんの家庭内のことである。そのことを知っているということは、仕掛けた小林さんの嫁から話を聞いているか、あるいは、家の中をのぞき見しているかしかない。
つまり、幽霊の真相を知っているということは、幽霊を作っている側か、あるいは不法侵入をしているかどちらかしかないということになってしまうのである。そのような疑いをもたれても全く意味がない。結局善之助には小林さんを会っても何も言うことができないのである。
「次郎吉は何をしているのだ」
善之助は、なんとなく夜起きては、次郎吉を待ったがしかし、いつもの曜日になっても全く音沙汰がない。いらいらしながらも、自分からは何もできないので無力感を感じるしかなかった。
「そもそも、幽霊なんているわけがない。それを相談に来た小林さんの頭の中はいったいどうなっているのであろうか」
だいたい、自分がイライラし始めると、周辺に怒りをぶつける。これが人間の習性である。それが「普通」だといった瞬間に、善之助は、以前の事件の日のことを思い出す。
マンホールの中で「普通とは何か」「常識とはないか」ということを次郎吉と話し合った。まさに、我々は「普通」「常識」といって、周辺の人々と同じであるかのようなことを自分たちで言い、それ自体が正しいのかどうかなどは全く関係なく、周辺と同じであるということでそれが正しいらしいと思って満足してしまうということになる。
他の人と同じであるということが大きな安心になるが、そのことが正しいという根拠は全くないのである。根拠がないのに安心してしまうということでよいのかと思う。
これを逆に考えれば、「一人である」ということは「安心できない」ということの一つの象徴的な事例である。もちろん、正しいという自信があればそれでもよいのかもしれないが、多くの人の中で孤立していること、孤独を感じていること、自分だけが知っていてその情報を共有でいないことなどは、まさに、「孤立」ということになる。
その孤立は、正しくても安心できない状況ということになるのではないか。
善之助は、小林さんや、そのほかの老人たちの間で、一人だけその真相を知っていながら、何も言うことができない、孤立を感じていたのである。
「お待たせ」
次郎吉が現れたのは、それから一週間たった後、最後に来てから二週間たっていた。
「どうした次郎吉」
「まあまあ、ちょっと時間がかかっただけだ」
ついさっきまで、いらいらしながら待っていたが、次郎吉がくるとなんとなく安心してしまう。孤立ではなく、真実を知っている人が二人になった瞬間に、心強くなって自信が出てくるものだ。
「ずっと言えないから困っていたところだ。しかし、真実をわかっているのが私だけというのは心細いものだね。」
善之助は、今までの不安な気持ちを吐露した。
「誰にも言ってないだろうね」
次郎吉は、少し厳しい口調で言った。
「ああ、もちろんだ」
「ならいい」
次郎吉は、少し優しい、いつもの口調に戻った。 優しいというよりは、安心した、という感じであったかもしれない。それだけ、幽霊を相手にすることは、難しいということなのであろうか。
「いや、知っているのが私だけというのは、かなり不安だし、心細いものだ」
「何を言っているんだ。」
次郎吉は、苦笑いしか出てこない。まあ、目が見えないし、泥棒の心得もない人、今まで、社会の中で、何の疑問も持たず、真っ当な人生を歩んできたような、絵にかいた ような善之助にとっては、そのようなものなのかもしれない。
「爺さん、泥棒なんていつも一人で社会という人混みを恐れながら生きているんだ。一人で心細いなんてことを考えたことはないし、そんな繊細なことでは、泥棒なんてやってられ ないよ。」
「そういうものか」
「逆に、俺たち泥棒にとっては、他人様と一諸とか、他の人が見ているということが、命とりになつてしまうんでね。他と一諸でないということが不安になるつてのはよくわかんねえな」
「そういうものか」
「そりゃ、そうだろう。その他人様が怪しいとか、疑わしいと思って、誰かに通報でもされたら、それで、仕事は終わり、下手すりゃ、捕まってそのまま人生が終わるやつもいるんだ。そんな心配するならば、ずっと一人でいる方が良いってなもんだからな。」
次郎吉と善之助では、このようなところでまた物事の感じ方が全くちがうのである。確かに次郎吉の言う通り、泥棒は誰かに見られているということは、そこから様々なことが露見するというような問題を包含していることになる。そして、そのことが大きく問題になるようであれば、普段からあまり多くの人と一緒にいることをしない。
次郎吉などはそのためにマンホールの中を根城にしているのである。暗い中で一人でいる方が安心するという。
もちろん、様々な家や会社の内情を知っているのであるから、そのことを一人で抱え込んでいることになる。しかし、そのことは誰にも言わずに一人ですべて抱え込んでいるのである。よくそんなことができるな、善之助は推す思わずにはいられなかった。
「一人で他人様の秘密をたくさん抱えていては、苦しくないか」
善之助は素直にそのように言った。
「なぜそんなものを抱え込む必要があるのだ」
「いや、そりゃ様々な家の中に入れば、その人しか知らない様々なものが見えてくるだろ」
「まあな」
「では、その秘密を話したくなるとか、その秘密を話すことによって釈迦がよくなるとかは考えないのか」
「全く」
「どうして」
「今回の小林の婆さんの件は別にして、何も他人の秘密に首を突っ込むことはあるまい。せっかく秘密にしたり他人に隠したりしているんだから、そのままにしておいた方がよいのでは」
「しかし」
「テレビのワイドショーなんかでもそうだが、なんでそんなに他人の生活の中身を知りたくなるんだ。もちろん、俺はその秘密にしているものを取りに伺うのだが、しかし、そのことを他の人に言う必要はないだろう。秘密にしているものだから、盗んでしまってもあまり大っぴらに他人に相談できなかったり、通報が遅れたりする。場合によっては、家族にも相談できない場合があるんだ。しかし、それを他人に話してしまえば、やじ馬が見せてくれと殺到してみたり、あるいは、ばれてしまったから他に売却してしまったり、価値が下がってしまったりする。そんなことをしては、こっちは仕事がしにくくて仕方がないんだ。だいたい、他人の秘密を知ることが、普通の他の人の生活に何の足しになる。そんなことをしても面白くないし、関係なかろう。」
「まあそうだが」
「芸能人なんて、会ったこともない奴が、離婚しようが浮気をしようが、俺たちの生活には何の関係もない。泥棒は何を持っているかは知りたいが、泥棒以外の人は、何を持っているか、最近何を買ったかなんかも何の関係もないんだ。逆に、そんなことを噂している方が、大きな問題なんだよ。」
「確かにそうだ」
「日本人は、そんな風に、他人様のことに首を突っ込んで物事を話しするから、全く自分の生活と関係ないことや、どうでもよいことで何となく満足してしまい、本当に自分の生活に関係のあることや、本当に大事なことは全く見えなくなってしまっているんだ。まあ、本当に大事なことを見えないから、我々泥棒が仕事がしやすいということもある。芸能人のゴシップなんかをあおっている人々が、本当に社会を悪くし、その歪みを我々泥棒様がうまく利用しているというようなことかもしれないな」
確かに次郎吉の言う通りなのかもしれない。本当に大事なことが見えなくなっている。そのことがもっと大きな問題である。
今回の小林さんの件でも同じだ。家の中のことがわからないから、幽霊話などになっている。老人会の多くの人々は、幽霊話ばかりゴシップで盛り上がっているが、本当に大事なこと、つまり、小林さんの家族のことや、小林さんの嫁がホスト狂いをしていることなどは、全くわかって居なかったのである。
本当に大事なことが見えていれば、実は幽霊騒ぎなどは起きなかったかもしれない。小林さんから、家族関係などのヘルプサインがあれば、こんなに大ごとにはならなかったかもしれないのだ。
「なるほど、言う通りだな」
「まあ、今回もじいさんたちが幽霊で騒いでくれたおかげで、嫁はそのまま幽霊を続けていたし、それに、その幽霊の話をうまく利用して仕上げにかかってたから、なかなか面白かったがね」
「そうなのか」
「ああ、爺さんが放っておいたら危なかったかもしれないね」
「で、どうなったんだ」
次郎吉はゆっくりとお茶を飲んで口を開いた。