なぜ「出雲郷」を 「あだかえ」と呼ぶのか
この地域の歴史に造詣が深い郷土史家周藤国実氏に「出雲郷」 と書いて「あだかえ」と読むことについて、歴史的な由来をうかがった。(聞き手 岸本定朝)
―「出雲郷」とあるがこの「郷」はどういう意味があるのでしょうか。
周藤 「郷」とは、奈良時代の国司政治において、約五十戸をもってあてた、現在の村に当たる呼び方です。
その時代に書かれた「出雲国風土記」によると、出雲郡(旧簸川郡)には出雲郷名がありますが、意宇郡(旧八束郡)にはまだ出雲郷はなかったようです。時代は下って「和名抄」にもまだ記載はありませんが、「和名抄」から文永時代(約700年前)まで の300年ばかりの間にあって、出雲大社会頭役結番を定めた鎌倉幕府の下知状に、 初めて「あだかえ」の出雲郷名が文献上に 表れてきます。
―何故、「あだかえ」と呼ぶようになったでしょうか。我々が子供の頃、「出雲郷」の どこが「あ」で「だ」で「か」で「え」だろうかと純粋に疑問に感じていました。
周藤 そこで、「あだかえ」の地名の起こりは、出雲国風土記所載の阿太加夜神社の「あだかや」が語源であると思われます。
二百五十年前江戸時代の享保二年に黒沢長尚が書いた出雲の地誌である「雲陽誌」の中の「出雲江」の関した条に「俚民、出雲里と書いて「あだかえ」と読む。ある人のいわく加茂の競馬の事書きたりし文を見るに、出雲江の馬一匹あるを「あだかえ」と仮名付けたりと」とあります。
―加茂と言われましたがどこですか。
周藤 この加茂は京都の加茂神社です。その近くを流れる有名な鴨川(かもがわ)と、 支流の高野川の合流する地点北べりに、紀元前後の上古時代に広く活躍した出雲族の一大根拠地があったようです。
ここにもやはり、「出雲郷」があり、出雲郷計帳は、現在奈良の正倉院所蔵文書として名高く、あらゆる歴史書の参考文献として引用されています。
その京都の「出雲郷」からは、加茂の競馬に参加するのは容易であるが、遠い出雲の国の「出雲郷」からの参加は、昔交通が不便だった時代を考えてみると無理ではなかったかと思います。
ところで、加茂神社の分身をまつる加茂社は、出雲国にも安来市、邑南町中野、雲南市加茂町にもあり、そこでも競馬が行われていたから、東出雲町の「あだかえ」から参加することは可能だったと考えられます。
―「あだかえ」の呼称について、大学の先生や歴史家に照会したり、いろいろな古文書等を調査、研究されていますが、どんなことが解りましたか?
周藤 昭和四十年代初め頃に私は、創元社歴史選書の「古代国家と天皇」の著者である元京都府立大学長(当時京都大学文学部助手) 門脇禎二先生に「所載されている京都の「出雲郷」はなんと呼んでいたでしょうか。」と照会したところ、「現在京都にはその跡はなく、ただ出雲路とか出雲路橋、出雲路幸神などが、その付近の地名として残っています。
出雲郷とかいて「あだかえ」と読むことは初めて知りました。」との返事があったことを思い出します。
また、大日本史料八編六十一に文明十一年の山城国清水寺再興奉 加帳に「1本二十貫、出雲国意宇郡阿太加江妻女逆修」とあります。新しくは幕末の長州征伐に出雲郷の某氏が松江藩にしたがって出陣し、石見のさる関所で役人から氏名を問われた際、「あだかえ」と言ったら、役人が不思議な顔をしていたという話を古老から聞いたことがあります。
―京都において、出雲家族が進出し権勢をふるった時期があったようですね。ところで県東部に「あだかえ」と呼ぶ地域がほかにありますか?
周藤氏 松江市秋鹿町にも出雲郷と書いて「あだかえ」と読むところがあるし、雲南市木次町湯村にも出雲江神社があるので、土地の方に照会をしたところ、同じく「出雲郷」と書いて「あだかえ」と読むとのことでした。 天保四年、出雲神社巡拝記のという和本にも「古に国庁がありしために「あだかえ」と読む」とあります
余談ですが、日本を紹介した文豪として 名高い小泉八雲(ラッカディオ・ハーン)に、当時同じ松江中学校の教頭であった西田千太郎先生が、明治二十六年二月十三日に、出雲郷と書いて何故「あだかえ」と読むのかと質問したところ、さすがのヘルン先生もその意味の解釈が出来なかったとヘルン先生生活記(島大梶谷泰之先生著)にあり大変おもしろく感じました。
―これまでの話を伺ってみると、結局のところ当て字と言うことでしょうか?
周藤氏 いろいろ考えてみるのに、「出雲郷」 名は国司政治に伴う後年の行政上の名称であり、一方「あだかえ」の呼称はそれ以前 からの古い本来の地名称であったと考えられます。
それが合い重なった結果、「出雲郷」と書いて「あだかえ」と読むことが通念となり固
定化したものではなかろうかと考えられます。 <宗淵寺寺報『がたぴし』創刊号所収>