髪を切ることが反省?
少し前、あるプロスポーツ選手が丸坊主になった、との話題を目にしました。何でも私生活の乱れを反省して、とのようでした。
最近はファッションの一つとしても認知されている丸坊主ですが、一方ではこのプロ野球選手のように、公約を守れなかったり不祥事をしでかした者が自省を表す、もしくは懲罰の意味で、人が頭を丸めることは、これまでもよくありました。古代の社会では一種の罰則規定として、罪人は髪を切られ衣服を剥奪されました。その名残があるということでしょう。
お坊さんは基本的に丸坊主が常です。これはお釈迦さまが出家をなさる際に自らの髪を落とされたことに倣ったもので、禅の修行道場では5日に1回、カミソリで髪を剃り上げます。お坊さんにとっては日常の全てが宗教的に意味があり、髪を剃るのも只の身だしなみを整えるのではなく、「髪を剃れば、衆生まさに願う、永く煩悩を離れて究めたところの寂静ならんことを」という意味のお唱えをしながら剃ります。髪の毛を煩悩の象徴として、これを断ち切るのですが、大切なのは、お坊さんは「髪を剃り続けている」ということです。
どういうことかと申しますと、人間誰でも一時的には反省をしたり、志を立てたりするわけです。「もう二度○○をしない」とか「これからは○○をしよう」と心に決めても、中々その思いが実行として長続きしません。いわゆる「初心」とは、立てた時点では自分一人で決めるもので、それが日常生活において、他人との関わり、時勢との兼ね合いで段々と細り、忘れていきがちです。実はお坊さんもその辺の事情は同じなのですが、ただ、お坊さんは定期的に髪を剃りお唱えをすることで、その意味を再確認します。つまり初心をいつでも持ち続けるために、髪を剃り続けているのです。
ところで、みなさんがよくご存知のお釈迦さまのお姿は丸坊主ではありません。短い髪の毛にカールがかかっていて、まるでパンチパーマのようです。もちろんお釈迦さまの時代にパーマの技術はありません。これは「螺髪」といって、後年にお釈迦さまの仏像を作った時に、仏としての聖性を人相的に強調したものです。
とにかく、お坊さんにとって髪型にかける時間は無用、他にやらなければいけないことが山ほどある、ということです。(副住職 記)<宗淵寺寺報「がたぴし」第3号所収>