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宗淵寺/願興寺

「骨董趣味」と「用の美」

2010.08.01 03:00

 先月の、第9回参議院議員選挙。結果はみなさんご承知の通りですが、個人的に私が注視していたのは、「世襲」に対する選挙民の判断でした。

 ちょうど1年前。民主党への歴史的な政権交代をもたらした第3回衆議院総選挙では、「世襲制限」についての論争が活発だったと記憶しています。また、6月に鳩山前首相から菅首相に交代した際にも、「市民活動家出身の叩き上げ」「非世襲」との好評価も聞かれました。そんな中、世襲候補の典型とも言える青木一彦さんが「父の背中を見て育ちました」と世襲を全面に出して選挙戦を闘ったのを、大変興味深く拝見していたのです。

 私がなぜ斯くも「世襲」に興味津々なのか。それは、言わずもがな私も「世襲の僧侶」だからです。政治家の世襲では、よく「地盤・看板・かばん」の優位性が言われますが、これらは本人の意志そのものではなく、あくまで副次的・補強的な要因です。今回の選挙でも、青木さんが候補になった背景には、「看板」を利用して「地盤」をソフトランディングさせようとした後援者の事情があったはずです。

 私の場合、寺の息子として生まれたのが、僧侶になった主因です。うちではお米を買ったことがありません。お供えされたお米を備蓄して食べているからです。僧侶の中ではこのことを「仏飯を食べて育つ」と言っています。私には、この仏飯の恩義は甚大で、お供えを頂いた檀家さんに「恩義を返さなければならない」との思いが強く、「自分のやりたい事や他の仕事で食べていく」ことよりもよっぽど価値があり、「公益(共益)」に適っているとすら思えるのです。檀家さんに「わしが死んだら葬式は頼むで」と言われた言葉が、未だに励みとなっています。

 お寺の世襲は、家族も含めた「既得権(住居など)」を維持したい住職側の事情と、代替わりが発生すれば、信心を託すべき住職を探して菩提寺に迎えるという檀信徒としての義務とコストを軽減し、次代以降の「安心(あんじん)」を得たいと願う檀信徒の事情、この双方が合致して成り立つものだと思います。「伝統や慣習」と言われるものは、こう言った人為的な交感の積み重ねが、結果として残ればそのように呼ばれるのでしょう。ただ、「伝統や慣習」はあく まで器です。使わなければ煤けてしま う。どのように磨き、どんな内容物を満たし使うかは、使う本人次第です。それに、これまでにその「器」がどれだけの人の手垢にまみれ、どんな思いを満たしてきたかに思いを馳せることは、私にとっては決して無味なことではありません。いわば「骨董趣味」と「用の美」。世襲に妙味があるとすれば、それはこの二つに尽きると思います。(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第7号所収>