人生最後の言葉
今年の2月に亡くなった寺族・コウ(私は愛情を込めて〝おばば〟と呼んでいましたので、以後は〝おばば〟と表記します)には、自身の境涯を言い尽くした、人生最期の言葉がありました。
それは、「しゃーしゃー」です。
10年以上前、まだお寺での接客などをこなしていた壮健な頃のおばばの口癖は、「感謝、感激、雨あられ」でした。贈り物を受け取った時や、食事の時に皿におかずを取り分けてもらうと、よくそう言って謝意を表現していました。
おばばは、とにかく独特の言語感覚の持ち主で、片田舎の地方寺院の一寺族に過ぎないのに、何故か自分のことを「わらわ」と雅言葉で自称するなど、自己愛も人一倍でした。
「感謝、感激、雨あられ」も、言葉としてはかなり大げさで芝居染みていますが、あまりにも事も無さげにサラッと言うので、本当に心底感激しているのか疑わしい。むしろ、厚意を受ける自分自身の徳を讃えているのではないか。私にはそう映ったものでした。
父もその辺を揶揄してか、よく「〝雨あられ〟は余計だ」と、おばばに釘を刺していたものです。
やがて寄る年波が、長い文脈でしゃべるのを億劫にさせたのでしょうか。代わりに短く謝意を伝える為に、おそらくは中国語の「謝謝(しぇいしぇい)」を、 何故か「しゃーしゃー」と日本語読みして、それが晩年の口癖となったのです。おばば独特の言語感覚の為せる業(わざ)だったのでしょう。
晩年のおばばは介護が必要な状態でしたが、部屋から食堂へ車椅子を押す時、ベッドに寝かしつける時、いつもおばばは「しゃーしゃー」と言ってくれました。
しかし、往時の自信に満ちた言い方ではなく、時には節々の痛みに堪えるように、時には老いて不具になった境遇を嘆くように、人生の苦渋をため息と共に弱々しく吐き出す、そんな言い方に変わりました。
そして、亡くなる前日。おばばは目に見えて衰弱し、今生の別れを覚悟した家族親類が見守る中、それまでただ横たわり、虚空に目を泳がせて、細く不規則に呼吸するだけだったおばばの口から、
「…しゃーしゃー…」
という言葉が突然漏れたのです。
私はその時改めて(もしかしたら初めて)、おばばの人生が、他者への感謝の念に貫かれたものだったと、深く深く気づかされたのです。おばばが最後に言った、嘘偽りのない全身全霊からの真実の言葉だったからこその気づきでした。
私がおばばのように「感謝」に包まれて逝けるのか。自信はありませんが、せめてその遺徳にあやかるべく、静かに位牌に手を合わせて供養します。(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第11号所収>