天の佑け
先日、妻が無事出産しました。
この世に生れ出た我が子が、すぐにかすかな産声を上げたのを聴くと、立ち会っていた私の頬を、一筋の涙が伝いました。でもこの涙は、決して喜びだけで流れたものではなく、ある悲しい記憶が流させたものでもありました。
先立つこと5年前、私たち夫婦は第一子を授かり、出産を心待ちにしていましたが、予定の1週間前、胎内で突如として心拍停止。病院で死亡診断を受けた日、まだ亡骸を胎内に宿す妻と一旦自宅に戻り、翌日の、産声のない出産に備えました。
朝方、妻が寝床で突如として大きな悲鳴を上げました。
「ダメーッ!」「連れて行かないでーっ!」。
私は泣き叫ぶ妻を心配して声をかけましたが、妻は泣きじゃくったままでした。
後から聞いた話ですが、あの時、妻は夢枕で、観音さまが我が子を連れて去って行く姿を見たのだそうです。
「お寺に嫁いだ身で悪いとは思うのだけれど、私は観音さまが許せない」。
妻がそう告白したのを聞いて、私は答えました。
「でもあの夜、もうすでにあの子は亡くなっていた。もしかしたら観音さまは、亡くなったあの子の魂が迷うことがないように、迎えに来てくれてたんじゃないかな」。
それを聞いた妻はしばらく黙り込んでいましたが、やがて思い返したようにこう言いました。
「あの時、私は誰かを、何かを恨まずにはいられなかった。でも一番恨もうとしていたのは、あの子を生きて産んでやれなかった自分自身。もしかしたら、観音さまは私に〝恨まれる役〟を引き受けてくれたのかもしれない」。
子どもは、「作る」のではなく「授かる」もの。
あれから5年経って、奇しくも6月17日、観音講の恒規法要の日に、子どもは産まれて来てくれました。まるで私たち夫婦に、観音さまがもう一度親になる資格を与えたかのようでした。
第一子の時の経験もあり、生と死、喜びと悲しみが表裏一体であることを体感している私には、これから我が子がどんな人生を送るのか、楽しみよりも不安の方が尽きませんが、ただただ、真心をもって子育てすることが天命だと感じます。
子どもには、人智を超えた天の助けや恵みを意味する「天佑(てんゆう)」という名をつけさせて頂きました。(副住職 記)<宗淵寺寺報『がたぴし』第17号所収>