怒りと寛容
はじめに
かつてNHKスペシャルで「無縁社会」という言葉が紹介され、流行語にもなりました。昨年の同番組で、今度は「不寛容社会」なる言葉が紹介されました。
番組のアンケートによると、対象の46%が、今の日本は「他人の過ちや欠点を許さない不寛容な社会だ」と答え、62%が「心にゆとりを持ちにくい」、66%が「イライラすることが多い」と答えています。そして、ネットでの炎上や不謹慎狩り、ヘイトスピーチなど、日本社会の不寛容な実態がレポートされました。
最近の世界情勢を見ても、ISの勃興やアメリカのトランプ大統領の誕生、ブリグジットショックなど、それまでグローバル化に進展していたものが、逆にローカル化の波が寄せ返し、その余波として、共感できない他者への怒りと不寛容な空気が世に満ちている。おそらく番組の問題意識も、こういったところにあるのでしょう。
怒りには理由がある
仏教が目指すことを究極的に言うならば「苦しみをなくし、安らぎを得る」と言うこと。逆の言い方をすると、「安らぎを得るためには、苦しみをなくさなければならない」ということです。
仏教では四苦八苦、すなわち、①生きること②老い③病む④死ぬ⑤愛するものと別れる⑥恨み憎むものと出会う⑦求めるものが得られない⑧健康で精力的だからこそ、むしろ諦められずに尽きない、とこれらを苦の原因を規定しています。これはつまり、それぞれの原因が生じなければ、苦も生じない、ということになるのです。
ただ、人間生活を送る上で、これらの苦を完全に避けることは絶対できません。苦の原因を生じさせないために人を愛さずに生きる。そんなことが可能でしょうか?
つまり仏教では、普通の人生で苦を避けることはできない、ということを逆説している、とも言えるのです。
そして、苦を誘発する心の毒の一つが、怒りです。つまり怒りがなければ、苦の原因が減るということになりますが、それは果たして可能でしょうか?
最近、「アドラー心理学」について書かれた『嫌われる勇気』という本がベストセラーになりドラマ化もされました。このアドラー心理学では、「怒りは出し入れができる」と説かれています。つまり本能とは別に、人は何かしらの目的を果たすために「怒りを作為する」と言うのです。
また最近では、特に対人関係を適切にするために怒りを制御する「アンガーマネジメント」という心理療法プログラムがあります。これによると、怒りはストレスと似ていて、感情的なピークは約6秒だと言います。ストレスは人間生活では可否できませんが、発散したり目をそらしたりして、うまく付き合うことはできそうです。
寛容だから他人に期待しない
「このハゲーッ!!」
僧侶である私の心胆を寒からしめる、耳を疑うような「暴言」が、約1ヶ月前にメディアから繰り返し流されました。確かに凄まじい怒気を孕んでいましたが、あの一件、私には、発言者が怒りに我を忘れたこともさることながら、元々極端に「不寛容な人」ではなかったか、と感じられました。告発者となった元秘書の男性の仕事上の「ミス」に対する叱責だったようですが、おそらく、超がつくほどのエリートだった某議員は、元秘書の不確実で「愚か」なミスが、自身の評価に繋がることが耐えられなかったのでしょう。
寛容になるには、本質的に人間は誤り易く不確実である、という前提が必要です。逆に確実性を過度に期待すると、それが叶わなかったことで、怒りの導火線に火がつき、「このハゲーッ!!」となるのです。
「他人に期待しない」と言うと、何か冷たいようにも感じます。しかし得てして、この「期待」は他人のためではなく自分の要望を叶えるための、自分本位な場合が大方です。やはり「他人に期待しない」方がより寛容的と言えます。
不寛容にも寛容に
昔、秋になると近所の神社で相撲大会があり、小学5、6年の男児は全員参加が原則でした(今はもうそうではなくなりましたが)。私は寺の息子でしたが、神社にはよく詣っていましたし、何より学校の友達がみんな参加する行事だったので、地縁を重んじれば、参加しないという選択肢はありませんでした。
しかし、ある一人の同級生だけが、信仰上の理由で参加しませんでした。その時私には、彼とその家族が地縁に背を向けたように感じ、突然宗教的な差異が先鋭的に露わになった気がして、それまで普通に互いの家を行き来して遊んでいたのに、その出来事をきっかけにあまり彼とは遊ばなくなりました。
若い頃には誰にでもある、友達と没交渉になる話、と思われるかもしれません。しかしこの話には、寛容さを考える上での重大な命題が含まれています。
よく、日本人は宗教的に(良い意味で)いい加減で寛容だと言います。その意味からすると、私は寛容で彼は不寛容、だったと言えるかもしれません。
しかし今になって思うと、私は「寛容という多数派」が正しいことして無意識に選んだことで、信仰上の理由で「不寛容な少数派」になった彼は正しくない、と心のどこかで爪弾きにしたのかもしれません。だとしたらそれはもはや寛容とは言えません。
実は、古今多くの宗教紛争は、この「不寛容に対する爪弾き」が原因となっている事実があるのです。共感できない相手であっても受け容れることができるどうか。不寛容に対する姿勢によって、寛容の真価が問われると言えます。